● なぜ、短い時間で決断できるのか
神経学者アントニオ・ダマシオの『生存する脳』は、思考における感情(と身体)の関わりを、数多くの臨床研究(脳の一部にダメージを受けた患者の研究)によって明らかにしようとする力作です。
その本の中で、われわれが決断をくだすメカニズムを考えている箇所があります。要約しつつ紹介しましょう。
あなたはある企業のオーナーだとします。あなたはいま、重要な仕事をもってきてくれそうな人物と会うかどうか、そして特別な取引を進めるかどうか、悩んでいます。なぜかといえば、その人物は偶然にも、あなたの大親友の最大の敵であることが分かったからです。
この問題に純然たる理性だけで取り組むと、どうなるか。著者の説明を読んでみましょう。(1)
クライアントを獲得すれば即刻利益がもたらされるかもしれないし、かなりの量の将来的利益が見込めるかもしれない。だが利益がどの程度かがわからないので、その大きさや割合を時間的に評価しなければならない。そうやってはじめて、それを潜在的損失と比較することができるようになる。その潜在的損失の中には、友情を失うという結果を算入しておかねばならない。この損失も時間とともに変化するから、その「減価率」も算定しておかねばならない! じつはここで複雑な計算と相対することになる。つまり、二つの異質の結果を比較することを迫られるのだ。その比較がなにがしか意味をもつようにするためには、それぞれの結果をなんとかしてある共通の量に翻訳しなければならない。
主な選択肢は二つ(会うか会わないか)ですが、選択の複雑さが実感できます(それを強調するために、意図的に長々と引用しました)。
すべての選択について、厳密に考えて最適な選択肢を考えていこうとすれば、われわれの日常はあっというまにパンクしてしまいます。しかし実際には、まあまあうまく決めて毎日をやりくりできています。純粋理性以外の何かが、われわれの決断を促しているようです。
● 感情が、論理的に検討すべき選択肢を絞り込んでいる
著者はここで「ソマティック・マーカー」というシグナルのようなものの存在を想定します。(1)
ソマティック・マーカーは、特定の行動がもたらすかもしれないネガティブな結果にわれわれの注意を向けさせ、いわばつぎのように言い、自動化された危険信号として機能する。
「この先にある危険に注意せよ。もしこのオプションを選択すればこういう結果になる」
ソマティック・マーカーの実体は、ある種の「感情」です。脳の特定の部位(前頭前皮質)が、身体や脳システムからの信号をまとめ、その結果をわれわれに「感情」として知らせている。著者の考えをわたしなりにまとめると、このようなメカニズムになっています。
このマーカーによって、われわれは選択肢を絞り込んだり、注意を払って(論理的に)検討すべき選択肢に注意を向けることができています。その根拠として著者が挙げるのが、このマーカーを受け取れなくなってしまった(前頭前皮質を失ってしまった)患者の観察結果です。そういった患者は、きわめて理性的に選択肢を検討できるのに、決断ができません。
本では、次の来所日を決められない患者の事例が紹介されていました。健常者は「そんな小さな問題をこれ以上検討しても、時間の無駄だ」「自分が時間をかけすぎているから、相手が当惑しているようだぞ」といったマーカーを受け取って検討を収束させるところです。しかしそのマーカーが来ない患者は、あらゆるオプションを検討してしまうために、決断にいたることができないというのが、著者の結論です。
● 感情を無視せず、意志決定に活かす
この研究結果を、われわれの実務上の意志決定にどのように役立てられるでしょうか。
まず、意志決定における感情の役割を認める必要があります。脳は状況に応じてソマティック・マーカーと著者が命名したシグナルを自動的に発信し、われわれは何らかの感情としてそれを受け取ります。
これが常に有益とは限りません。人間をパニックに陥れるのもこのマーカーのようです(上述の患者はパニックに陥ることがありません)し、これはわたしの推測に過ぎませんが、行動経済学でいうヒューリスティックも、このマーカーの偏りに起因しているように思えます。
しかし、このマーカーの受け取りを拒否することはできませんし、脳に傷を負ってこのマーカーを受け取れなくなってしまった(つまり感情を切り離された)「純粋理性人」の患者は、理性的すぎて決断ができなくなりました。
われわれが考えるべきは、意志決定から感情を切り離すのではなく、このマーカーを積極的に意識し、活用することではないでしょうか。マーカーには学習機能があるそうですので、ひとつひとつの決断を後から吟味し、どのような感情が起きていたかを観察することで、よりよい決断につなげることができそうです。
感情というと何とも捉えづらいもののように感じます。しかし著者は、感情は視覚や言語と同じく具体的なものであるとしています。より実際的な観察・活用の方法については、感情に関する知能を定義したEQ理論がわれわれの役に立ちそうですので、2010年はこのあたりをテーマに考えていきたいと思います。
末筆ながら、2009年のご愛読に感謝いたします。
(1) アントニオ・R. ダマシオ 『生存する脳 ― 心と脳と身体の神秘』(講談社、2000年)