よく、考えるときには「収束」と「発散」が必要と言いますよね。このように収まりのよい対〈ペア〉を見せられると、それが考えるべきことのすべてのように思えてしまいます。
しかし、そこに第三の要素を持ち込むことで、白か黒か、左か右かで済んでいた話が一気に複雑になる(奥行きが出る)と同時に、「これで整った」という感覚を持てることがあります。拙著『クリエイティブ・チョイス』で、やや勇み足ぎみに「第三の解は必ず見つけることができる」と宣言してしまってから、こういった話に惹かれ続けています。
【知能】分析的(収束)−創造的(発散)−○○
知能の研究者ロバート・スタンバーグは、知能を三種に分類しています(1)。まずは「分析的(analytic)」な知能と「創造的(creative)」な知能。ものを考えるときには「収束」と「発散」の両方が必要といわれる通り、分析的な知能は収束思考に、創造的な知能は発散思考に、それぞれ対応しているように思えます。収束と発散というのは収まりのよい概念で、これだけで十分なようですが、つねにどちらかの思考しかしていないかと考えると、何かが足りないようにも感じられます。
スタンバーグが挙げた三つめの知能は「実際的(practical)」な知能。文脈に応じて発揮される実際的な知能が定義されてみて、初めて「これで整った」という感覚を持てました。
【経営】サイエンス(分析)−アート(直観)−○○
経営学の研究者であるヘンリー・ミンツバーグは、経営をサイエンス(分析)とアート(直観)と○○の三幅対という、スタンバーグと似た枠組みで捉えました(2)。
サイエンスとアートは、それだけで完結性の高い対ですが、ここにクラフト(経験)という要素が加えられてみると、サイエンスとアートだけでは片手落ちであったことに気づきます。
【労働】肉体労働−頭脳労働−○○労働
労働といえば「肉体労働」と「頭脳労働」に二分されます。これだけで十分な分類にも思えますが、ここに「感情労働」という言葉(3)が持ち込まれたことで、肉体労働でも頭脳労働でもない、というよりはむしろその両者であるような、第三の労働形態の存在が実感されます。
【判断】善−悪−○○
ここでは二つの事例を紹介します。
ひとつは、以前に「無記(善くも悪くもない)」というコラムにまとめました。善も悪も、ある対象についての判断です。しかし善悪を問う前に、そもそも判断をしないという選択があり、これを指して無記といます。実証主義者であった釈迦は、形而上学的な(たとえば宇宙に始まりと終わりはあるか、人間は生まれ変わるかといった)問いかけに無記と答えた、つまり何も答えなかったと伝えられています。
善−悪−無記は、アート−サイエンス−クラフトのような、三者が対等な三幅対ではありません。しかしこの三つめの要素を念頭に置くことで、善悪・正誤・白黒をつけたくなるとき、「そもそも判断を取り除いた事実は何なのか」「そもそも判断をくだすべきなのか」といったかたちで、われわれの視野を広げてくれます。
もうひとつも、三要素がうまく鼎立しているわけではないもののハッとさせられる事例です。、組織のルールを定めるときなどに、性善説に立って策定すべきか、それとも性悪説に立つべきなのかという議論になることがあります。ここに新しい切り口を持ち込むのが「性弱説」(4)。人間を、面倒さや誘惑に負けてルールを破ることもある、弱いものと想定しようという立場です。
(1) ロバート・スタンバーグ 『思考スタイル―能力を生かすもの』(新曜社、2000年)
(2) ヘンリー・ミンツバーグ 『MBAが会社を滅ぼす マネジャーの正しい育て方』(日経BP社、2006年)
(3) 「感情労働」(Wikipedia)