● ノックアウト交渉術
交渉の専門家であるスチュアート・ダイアモンドは、生徒の一人だったニールのエピソードを自著で紹介しています。ニールは一流大学のロースクールを出て、大手不動産会社の法律顧問を務めています(1)。
ニールは友人を連れてレストランに行った。ビールを注文したが、運ばれてきたのは食事が来てから30分後。ニールは反射的に尋ねた。
「ドリンクは夕食前に出すのが決まりだよね?」
ウェイトレスはしきりに詫びて、こう弁解した。
「すみません、他のテーブルとごっちゃになってしまいました」
「それは僕のせい?」
「とんでもないです」
「ビールはもういらないよ」
「それはできません。ビンも空けてしまったし、端末に料金も入力してしまいました」
「自分の間違いの尻ぬぐいを客にさせるのが、このレストランの方針なのかい?」
「もちろん、そんなことはありません」
「これまで、料金を勘定から引いた前例はないの?」
ウェイトレスは料金を引いた。
……いかがでしょうか。レストランの「決まり」や「方針」といった、相手の規範を根拠にして自分の正しさを主張したり、前例をとっかかりに風穴を開けたり、交渉術のお手本のような交渉ぶりです。しかし、この事例には続きがあります。
ウェイトレスが行ってしまうと、友人が、ウェイトレスが料金を引いたのには驚いたと打ち明けた。
「このチェーンを知ってるけど、あの料金は、ウェイトレスの薄給から引かれるに違いないよ」
ウェイトレスは人前で馬鹿にされたくないばかりに、もしかしたら家族の食費を削ったのかもしれない。
ニールに非はありません。食前に来るべきビールが食事の30分も後に来たならば、キャンセルして当然です。そしてニールにしてみれば、ウェイトレスをやりこめることなど簡単でしょう。しかし、どこかアンフェアな印象を受けます。プロボクサーが一般人とケンカして拳を振るうような感じに近いでしょうか。
● 言葉のパンチを繰り出す前に
ニールはどこで歯止めをかけるべきだったか。こういう状況にあって、「その場」で思い出せるほど短いリストを使うとしたら、どんなものが使えるだろうか。そう考えたとき、2つのリストが浮かんできました。1つめは「ソフト・パワー」の提唱者として知られるジョセフ・ナイ教授の著書からメモした「道徳的な判断に必要な3つの義務感」です。
- 【良心】個人や宗教に根拠を置くもので、完璧な道徳性をめざして人々を導くもの
- 【一般的な道徳律】すべての人間が社会生活で持つべき義務として取り扱われる、一般的な道徳のルール
- 【専門的基準】職業的な倫理、つまり、人の果たす役割に伴う義務と見なされる伝統的な期待
道徳的な判断に必要な3つの義務感 – *ListFreak
良心・道徳・倫理は意味的な重なりが大きく、辞書を引き比べても違いがわかりづらい言葉です。ナイ教授の「個人的な良心、社会的な道徳、職業的な倫理」という整理は、わたしに実務上の判断をくだす際の視点を与えてくれました。ニールがこのリストを使ったら、ウェイトレスを交渉術でやりこめることに対して、プロの法律家としての職業倫理が警報を鳴らしたかもしれません。
2つめは愛用している「3つの門」です。
- これらのことばは真実か?
- これらのことばは必要か?
- これらのことばに思いやりはあるか?
カッと来た時、口を開く前に思い出すべき「三つの門」 – *ListFreak
ニールは「反射的に」交渉をはじめたとあります。もしこのリストを使っていれば、料金を引くことが何を意味するか、考えをめぐらせる余裕が生まれたかもしれません。
ニールはどうしたか。彼の話を聞きましょう。
「自分のビール代が彼女の薄給から出ているかもしれないと知って、ぼくはショックを受けた」
「結局ぼくはビール代を払い、対人関係のいい教訓になったよとウェイトレスに礼を言った」
「あれをきっかけに、交渉術の力を本当の意味で意識するようになった。これほどの力を秘めているからには、賢明に使わなければ、と」
「この教訓は、自分のキャリアに大きな影響を与えるだろう」
(1) スチュアート・ダイアモンド『ウォートン流 人生のすべてにおいてもっとトクをする新しい交渉術』(集英社、2012年)より。本文を編集のうえ引用しています。