【ストア派の奇妙な運命論】
「いま」は、過去に属するのか未来に属するのか。そんな面白い問いを考えさせてくれる文章がありました。(ローマの)ストア派哲学を再発見し、自らの実践哲学ともしているウイリアム・B・アーヴァインは、『良き人生について』で、ストア派の運命論を再解釈しています。
ストア派は、運命論を主張しつつ、将来のために全力を尽くしていました。これは矛盾のように思えます。本書から、ストイック(ストア派哲学の実践者)の運命論的姿勢がよくわかる文章を引用します。
良き人生を望むのならば、出来事が自分の欲望どおりになるのを望むのではなく、欲望そのものを出来事に一致させるべきだとエピクテトスは言う。言い換えれば、出来事が「起こるように起こる」のを望むべきなのである。
(p108)
なぜ「欲望そのものを出来事に一致させるべき」なのか。それは、ストイックの考える「良き人生」が、心の平静だからです。なるほど欲望と出来事、つまり理想と現実のギャップが小さければ、心の平静を乱す要素も少なくなるでしょう。
たちまち、それでは将来に対して無気力・無関心になってしまうのでは、という疑問が生じます。しかし、さすがにというべきか当然というべきか、それほど単純な思想ではありません。本書から、ストイックの脱運命論的とも思える姿勢がわかる文章を引用します。
ストイックは、将来に控えていることに無関心ではなかった。(略)古代ローマの兵士たちも、勇敢に戦争におもむき、勇ましく闘った――闘いの結果が運命によって決められていると信じていたにもかかわらず。
(p110)
著者は、深い思想につきもののこういった曖昧さにていねいに向き合い、著者なりの解釈をほどこしていきます。これは、著者自身がストア派哲学を実践するために必要な作業でもあったのでしょう。解釈そのものもさることながら、そういった探求の過程が本書の魅力にもなっています。
【起きたことは運命と思え】
著者は、未来についての運命論と過去についての運命論を分けることで、この矛盾の解消を図っています。過ぎ去ったことについて思い悩まないために、起きたことは無条件で受け入れる。それがストイックの運命論だというのです。これはとてもわかりやすい解釈ですね(1)。
さらにもう一歩考察を進めて、ストイックは過去に加えて現在についても運命を信じるように勧めていると著者は言います。この解釈を読んで本コラムを書こうと思ったので、すこし長めに引用します。
いまから十年、一日、あるいは半秒間でも、その間に起こることがらに影響を与えるように行動することはできるかもしれない。だがたったいま、この瞬間に起こっていることに影響を与えるのは不可能だ。なぜならたったいま起きていることに影響を与えようと行動したとたん、その瞬間はすでに過去にすべり込んでしまうからである。
(p112)
変えられないという観点からは、現在も過去と同じ。だから、今この瞬間がこうでなくああであったらと思い悩むのはやめようということです。
【過去を過去と思える強さ】
考えてみると「変えられない現在や過去について思い悩まない」というのは、一般的な運命論とは違ったラジカルな発想になり得ます。
たとえばAさんは、ある会議が始まってすぐ、自分が必須の参加者ではないことに気づきました。時間も長くかかりそうです。次のどれがストイックらしい発想でしょうか。
- 「ああ、議題を確認すればよかった」「これで今日も残業確定か……」と後悔しつつ、せめて会議が早く終わるようにおとなしくしている
- 「自分は価値を出せそうにない。議長に確認してすぐに席を立とう」
- 「本当は参加する必要はない会議だが、応諾してしまった過去は変えられない。だからそれを受け入れ、せめてこの会議をよいものにするためにベストを尽くそう」
1は典型的な「心ここにあらず」ですね。ストイックの戒めるところです。3は立派な態度ですが、著者の解釈(のわたしの解釈)に従えば、かならずしもストイックとはいえません。なぜなら、自分の過去の決定に未来をしばらせているからです(2)。
参加を承知した事実は変えられません。しかし、変えられない過去について思い悩まない人ならば、過去にしばられず「いま最善の選択」をするはずです。そのような発想からすると2の行動がもっともストイック的に思えます。3の行動もありえます。ただしそれは「過去に応諾してしまったから……」ではなく、あらためて会議に出る価値を見いだしたからでしょう。ちなみに選択肢にはありませんが、決めた時点で変えられないことと見なして一切悩まない(参加価値があろうが無かろうが参加と決めたので参加する)のであれば、それはそれで「変えられない過去について思い悩まない」態度です。
そう考えると、ストイックの運命論(についての著者の解釈)はずいぶん前向きで激しいものにすら感じられます。わたしの再解釈をまとめておきます。
いま起きていることもすでに起こったことも、変えようがない。だから、これから「現在」にすべり込んでくる瞬間を、つまり未来を、よく変えるためにできることをやれ。最後の最後の半秒間まで最善を尽くせ。
(1) では逆に未来は何でも変えられると考えていたかといえば、そうではありません。このあたりは因果関係や自由意志についての考えと併せた説明が必要になるので、稿をあらためます。
(2) ここではストア派の考えのごく一部だけを切り出して論じています。実際に始まった会議を中座するかどうかの判断には、人間関係など他に考慮すべき事柄があります。ストイックは必ず上記のように行動するはずだという話ではありません。