● 「責任」イコール「罰」?
ビジネスの世界では、よく「売り上げに責任を持つ」という言い方をします。これは、具体的には何を指しているのでしょうか。政治家や経営者が、不祥事の責任をとって辞任したりしますが、それと同じことなのでしょうか。もしあなたが部下から「責任を持つとはどういう意味ですか?」「責任を持って仕事をしているかどうかを、どう評価するのですか?」と聞かれたら、なんと答えますか?
「責任」をWikipediaで調べると、「義務あるいは義務に違反した罰を負担すること」とあります。すると「売り上げに責任を持つ」とは、売り上げ目標という義務を果たせなかったときに減給などの罰を負担すること……?それでは誰もすすんで責任を持ちたくなくなってしまいます。そんな会社もあるでしょうが、ここでは例外としておきましょう。
広辞苑によれば、「責任」には2つの意味があります。一部省略のうえ引用します。
(1) 人が引き受けてなすべき任務。
(2) 政治・道徳・法律などの観点から非難されるべき責(せめ)・科(とが)。
これを見ると、政治家や経営者の辞任は、主に(2)の意味での「責任」を取る行為であることが分かります。これに対して、われわれがある商品の「売り上げに責任を持つ」という場合には、(1)の意味合いが濃いでしょう。
とはいえ、(1)だけではすまないように思えます。実際、小学館の「デジタル大辞泉」では、両者の中間的な定義をもうけていました。
1 立場上当然負わなければならない任務や義務。
責任 とは – コトバンクより
2 自分のした事の結果について責めを負うこと。特に、失敗や損失による責めを負うこと。
3 法律上の不利益または制裁を負わされること。
われわれが仕事において「責任」という場合、程度の差はあれ、2の「結果について責めを負う」という意味合いを込めています。
●「責任」イコール「結果について責めを負う」?
しかし、単純なオペレーション業務などを別にすれば、ある結果が100パーセント個人の責任だといえるケースはそれほど多くありません。特定の期間の結果に影響を及ぼす因子は無数に存在します。そして多くは、その期間内の個人の力ではいかんともしがたいものです。たとえば売り上げでいえば、景気が悪くなった、製品に不具合があった、前任者が見込み顧客の開拓を怠っていた、などなど。
そもそも不確定な将来に向けて意志決定を重ねていくのですから、結果は分かりません。結果は不確実なのに、失敗すれば責めを負うことは確実だとすれば、合理的な個人はどう振る舞うか。なるべく失敗しないよう、保守的な仕事の定義をするでしょう。
それでは企業が成長できないということになれば、今度は成功に対して報酬が用意されるはずです。合理的な個人は、それこそディシジョン・ツリーでも作り、報酬が最大化されるような目標を立てるでしょう。
これは、要するにアメとムチです。責任を持つとは「結果が出たらごほうびを、出なかったら罰をもらう」というだけのことなのでしょうか。
それだけではないはずです。われわれが「責任感」を感じて何かをみずから引き受けるとき、そこには「イヤだけど義務だからやろう」という以上の、ポジティブな気持ちがはたらいています。その気持ちは、大辞泉の「1 立場上当然負わなければならない任務や義務」というイヤイヤ感のにじみ出た定義よりも、広辞苑の「(1)人が引き受けてなすべき任務」というすがすがしい言辞に、より正確に表現されていると感じます。
あなたがマネジャーとして、部下に「この商品の責任者をあなたにお願いしたい」というとき、そこに込めているのは「立場上の義務を負わせるぞ。うまくいけばごほうびをあげるが、失敗したら罰を食らわせるぞ」という気持ちだけではないでしょう。
●「責任を持つ」とは「最善を尽くすと約束した上で任務を引き受ける」こと
「責任」の定義について一通り確認しましたので、冒頭の問いについて考えてみましょう。もし部下が「責任を持つとはどういう意味ですか?」「責任を持って仕事をしているかどうかを、どう評価するのですか?」と聞いてきたときに、どう答えるべきか。
一部は、上で見てきたような「結果責任を取ってもらう」という答えになるでしょう。しかし、それだけではないはずです。「結果に責任を取ってもらう」だけでは、「責任(感)を持って取り組んでもらう」という意味あいが伝わりません。
「ビジネスは結果がすべてなのだから、結果だけに責任を持つという考え方でよいではないか」という考え方もできます。しかし、これは効果的とは思えません。
まず、自分の能力が100パーセント、しかも即座に結果に反映される仕事でもない限り、仕事に投入した能力とその結果は一致しません。したがってわれわれは結果への評価に対して「報われない感」「不運感」を感じがちです。
とはいえ、長期にわたって評価を繰り返していけば、能力は結果として現れてくるものです。ですから、結果だけで判断するというやり方は、長期間のつきあいを前提とするならば、合理的です。
しかしそれでは、金の卵を腐らせてしまうリスクが高まります。逆説的なことに、長期間のコミットメントを引き出すためにこそ、能力を評価してあげることが重要なのです。そして、持てる能力をつねに十分に発揮してもらうためのキーワードが「責任」なのです。
以上をふまえて、わたしなりに定義をしてみます。責任を持つとは「(結果にかかわらず)最善を尽くすと約束する」ことです。結果が出ないときに工夫をすることはもちろん、結果が出てもそこで力をゆるめないということです。
評価との関係でいえば、仕事の責任を持つとは「この仕事に対する取り組みを、自分のベストの能力を発揮した結果として評価してもらってかまわない」という宣言です。マネジャーからすると「その仕事ぶりをあなたのベストとみなして能力を測りますよ」という宣言です。
今期はなんとなく調子が出なかったとか、求められる結果は出したので後半は流したとか、実際にはいろいろあります。「今期の仕事ぶりだけを見て能力を測られてはたまらない」と思うこともあります。しかし、仕事に責任を持つ、つまり「その仕事に最善を尽くす」と約束したのですから、「もっとできたのに……」「潜在的な能力も評価してほしい……」という言い訳はなしです。
● 責任を取る義務は、決める権利とセットで
部下に、ある仕事についての責任を持たせる、つまり「任せる」ときのポイントは何でしょうか。このコラムのテーマである意志決定に関わることでいえば、仕事の責任を、その仕事に関する決断の自由とセットにして渡すことではないでしょうか。
部下に特定の商品の売り上げを見させるならば、その目標を達成するための手段を決めるのは、その部下本人であるべきです。売り方や経営資源の使い方についてしばりをかけておいて、責任を取れというのは理不尽です。逆に、部下が責任を取れないことがらについて決断を強いるべきでもありません。
決める人が、決めたことに対して責任を取る。われわれは、生活のレベルでは否応なくこの原則を受け入れています。仕事でも、ときに難しい局面はあるとしても、「決める=責任を取る」の原則に立ち戻ることが、マネジャーとして部下の仕事にどこまで介入すべきかのガイドラインになると思います。
● 二つの責任のバランスはどうあるべきか
責任が「結果についての賞罰」と「最善を尽くすという約束」の二つの意味合いを含むとして、評価に当たってどのようにバランスされるべきでしょうか。主要な変数をいくつか考えてみました。
- 職位……高い職位にあることは、「最善を尽くすという約束」を守れる人であるということの結果でもあるはずなので、この意味での責任は果たして当然と見なされる。したがって「結果についての賞罰」の比重が高くなる。低い職位にあるうちは、結果をコントロールする余地も小さいので、「最善を尽くすという約束」を果たすことが重んじられる。
- 仕事の定型性……定型的な仕事では、投入した能力と結果が結びつきやすいので、どちらで測っても似た評価になるはず。新規事業の開拓や各種の改革など、結果について誰も予測し得ない仕事については「結果についての賞罰」を問うことが難しいので、相対的に「最善を尽くすという約束」の比重が高まる。
- 個人の好み……結果が読めない仕事であっても、あえて「結果についての賞罰」で評価を受けることで動機づけられる人もいる。個人が責任の持ち方・取り方のバランスをある程度選べることが望ましい。