HOME > 読み物 > 大事なことの決め方・伝え方 > 121 「先延ばし」にひそむかすかな恐怖

121 「先延ばし」にひそむかすかな恐怖

 ● micro-fear(微恐怖)

同窓会の招待状に返事を書くのを、つい先延ばしにしてしまう。
医者の予約を、つい後回しにしてしまう。
評価を上司に聞くのを、つい躊躇してしまう。

実際に着手すれば1分もかからないのに、「つい」先延ばし、後回し、躊躇、してしまう。ある記事に載っていたこれらの事例を目にして「あるある」とうなずいてしまいました。読んでいたのは、意訳すると「我々を動かす(たった)5つの恐怖」(Psychology Today) というタイトルの記事です。[1] これらは、micro-fear(微細な恐怖)が起こさせた行動の事例として挙げられていました(少々編集しています)。micro-fearには定まった訳語がないようなので、微恐怖としておきます。感情研究のひとつであるmicro-expression(ごく短い時間に表れる微かな表情の変化)が微表情と訳されることが多いので、あながち的外れでもないでしょう。

さて「同窓会の招待状に返事を書くのを、つい先延ばしにしてしまう」という文を例に取って、微恐怖のはたらきについてのわたしの理解を書いてみます。

わたしが返事を先延ばしにしてしまうのは、返事を書かなければと思うたびに「面倒」な気持ちになるからです。しかし先述のとおり、実際には1分もかからない単純作業です。そこで、なぜ面倒な気持ちになるのかを掘り下げてみると、意識に上らないくらい弱く、したがって言葉にもならなかったけれど、小さな「不安」を感じていたことに気づきます。不安は弱い「恐怖」であり、人間は恐怖から離れたいものですから、反射的にその行動から離れるのも無理はありません。

※すべての先延ばしの原因が微恐怖だと言いたいわけではありません。微恐怖が原因で先延ばしが生じ得ることだけを説明しています。

微恐怖はあまりにも速く、そして弱いので、当人が恐怖と気づくことすらありません。上記の例では「面倒」というラベルを貼って見過ごしていました。

加えて、これはクモを見て後ずさるといった実体のあるものに対する恐怖ではないので、恐怖の対象が分かりづらくなっています。

実際、何が微恐怖を生じさせ得るかと考えてみると、過去に同種の集まりで感じたいたたまれなさ、恥ずかしさ、悔しさ、むなしさといったネガティブな感情の記憶であろうことが分かります。微恐怖は、ほんものの恐怖の先触れとしてはたらいているといえるでしょう。「このまま行くと恐怖を味わうことになるかも……」というシグナルを送っているということです。

● 微恐怖とのつきあい方

せっかくのシグナルを「なかったこと」にして、つまり抑圧あるいは無視して行動すると、また同じ目に遭うかもしれません。しかしシグナルの言いなりになっても、よい結果が得られるとは限りません。ごくシンプルにいえば、微恐怖を含む情動の多くは、その人が、あるいは人類が、似たような状況で経験した感情を、ある種の身体信号として再生したものといえます。重要な情報ではありますが、知性の代わりに総合的な判断をくだしてくれるというわけでもありません。

ここから先はEI理論で定義されている「EQ4つの感情能力」にのっとって微恐怖とのつきあい方を考えてみます。

  • 【気持ちを感じる】 自分がいま何に対してどのような微恐怖を感じているかを感じ取る
  • 【気持ちをつくる】 微恐怖を感じ、考えるにふさわしい気持ちをつくる
  • 【気持ちを考える】 その微恐怖がどこから来ているか、何を意味するかを考える
  • 【気持ちを活かす】 微恐怖という情報から得られたメッセージを思考に組み入れ、行動を選ぶ

ところで、記事のメインテーマは微恐怖ではなく、(ほんものの)恐怖にはたった5種類しかないということです。これは【気持ちを考える】材料になります。つまり、恐怖の種類を知れば、その先触れたる微恐怖が何を知らせようとしているのかを考えやすくなるはずです。私訳をお目にかけます。

  • 【消滅】 絶滅や死など、存在が無に帰すことへの恐怖。
  • 【離断】 体の一部が失われたり侵されることへの恐怖。不気味な動物への恐怖など。
  • 【自由の喪失】 物理的あるいは社会的に、自由が失われたり制限されることへの恐怖。
  • 【分離】 無視や放置により、人として扱われないことへの恐怖。
  • 【自我の死】 自分は価値ある人間だという感覚が崩壊することへの恐怖。屈辱や恥など。

基本的な5つの恐怖*ListFreak

 同窓会の例に戻って考えてみます。感じた微恐怖がこの5種の恐怖のどの先触れなのかを考えてみると、ありそうなのは【自我の死】、たとえば自分が期待したほどには周囲がチヤホヤしてくれず、当時も今も重要人物でないことを確認する結果になるのではないかという恐怖です。

原因が明らかになれば、対策も考えやすくなります。自分の期待は妄想なので期待値を下げて参加しようという人もいるでしょうし、当時あるいは現在の自分の活躍を示す何かを持参して、自我の無駄死にを防ごうとする人もいるかもしれません。同窓会に参加して得られそうな期待と【自我の死】とを勘案して、参加しないという判断もあるでしょう。

自分の能力や価値が否定されたら……とまでは思わない、つまり【自我の死】という恐怖は感じないものの、話し相手がいなかったら嫌だなと思うかもしれません。同窓会といっても親しかった人ばかりが集うわけでもないですからね。これは「5つの恐怖」でいえば【分離】でしょう。もし微恐怖の中を覗き込んで、そこに【分離】の恐怖を見つけたならば、話し相手になってくれる友人を誘って参加するのが対策になります。
※ そう考えると、自分のことを「こいつは当時もすごかったし今もすごい」と皆に言ってくれるような友人は、【分離】からも【自我の死】からも救ってくれる貴重な存在です。ぜひとも連れていかねば、ですね。

この架空の事例を考えたあと、つい最近、娘の学校のPTA活動に参加しないかというアンケートを求められ、期限日まで回答を留保していたことを思い出しました。「早く考えはじめ、いったん寝かせ、期限の近くでよく考える」という、自称M字型決定がわたしのポリシーなので、そのこと自体は自分の意志なのですが、じっくり考えるのを先延ばししていたのも認めなければなりません。いま振り返ってみると【自由の喪失】6割、【自我の死】3割、【分離】1割の恐怖からくる不安(微恐怖)が先延ばしをさせていたのかな、と思います。

かねてから1年間は学校の活動に参加したい(せねば)という思いがあったので、すでに参加を決めました。でも、あいかわらず面倒だとも思っているので、その面倒な気持ちを5つの恐怖に分解すれば、今からでも役に立ちそうです。たとえば上述のように、先延ばしから【自由の喪失】という恐怖を取り出せました。時間が食われる事実は動かしがたいので、活動する以上は「自由時間を奪われた」ではなく「発揮と貢献の機会を与えられた」と見なしたいと思います。きれい事のようですが、書きながらすこし気分が軽くなったのも事実です。


[1] Karl Albrecht, “The (Only) 5 Fears We All Share“, Psychology Today,(最終閲覧日:2020-03-04)