●【2人の時計職人の話(ハーバート・サイモン)】
その昔、テンプスという腕の立つ時計職人がいました。時計作りは1000個の部品を一つずつ組み込む精密な作業で、中断は許されません。テンプスの評判が広まるにつれ、時計作りを依頼する電話も増えました。しかし電話に出るために作業を中断すると、時計作りは最初からやり直しです。
オラという職人も、テンプスと同程度に複雑な時計を作ります。ただしオラは、1000個の部品を10個ずつ100の小モジュールに組み上げ、それをさらに10ずつまとめて10のモジュールとし、最後に1つの時計を作る方法を考案しました。このやり方であれば、中断があってもテンプスに比べると手戻りが少なくてすみます。結果としてオラの店は栄えたのに対し、テンプスは店を畳まざるを得なくなりました。
これは、ノーベル経済学賞を受賞したハーバート・サイモンがある論文の中で提示した架空の事例です。彼は、テンプスが1つの時計を組み上げるためにかかる作業はオラの2000倍にも及ぶことから、複雑なシステムが進化するには「安定した中間形態」の数や分布が重要であることをわかりやすく示しました。
上記は『システムの科学』からの要約ですが、もともとはアンドリュー・ゾッリ他『レジリエンス 復活力–あらゆるシステムの破綻と回復を分けるものは何か』という本で見かけた事例です。
レジリエンスは最近心理学用語として脚光を浴びつつあります。この本では幅広く「システム、企業、個人が極度の状況変化に直面したとき、基本的な目的と健全性を維持する能力」と定義し、自然、個人、社会でみられるレジリエンスを観察していきます。著者がレジリエンスのあるシステムの一例としてあげたのがモジュール構造、つまりオラのやり方でした。
●【何があっても「目的と健全性を維持する」】
モジュール化という発想は、われわれも日常的に採り入れています。テンプスのやり方をセールスに置き換えれば、常に1社だけに社を挙げたセールス活動をするようなものでしょう。いくら期待受注額が大きくても、失注などの「極度な状況変化」に直面したときに、組織の継続という「基本的な目的」が維持できません。
通常はオラ方式でしょう。セールスの対象を複数の見込み顧客に広げ、たとえば商談の進み具合ごとに管理します。まさに数と分布をコントロールしようとしているわけです。
では、個人の人生におけるレジリエンスとは何か。避けがたく訪れる極度の状況変化に直面したとき、基本的な目的と健全性を維持する能力とは何か。今回はそれを考えてみます。
本書にそのものずばりの答えが書いてあるわけではありませんが、いろいろとヒントはあります。たとえば「頑強性」「冗長性」「元の状態への回復」は、レジリエンスとは違う概念だとあります。
「頑強性」とは、たとえば健康増進です。もちろん重要ですが、言ってみれば失いづらさを高める工夫であって、本書で復活力と訳されているレジリエンスとは違う概念です。
「冗長性」とは、たとえば共稼ぎとか、生命保険です。これはも失いづらさを高める工夫という観点では、レジリエンスではありません。
「元の状態への回復」もレジリエンスとは違うという指摘には、ハッとさせられるものがありました。たとえば大病をして健康が回復不能なまでに損なわれてしまったら、その人にはレジリエンスを発揮する余地はないのか。もちろん違います。「基本的な目的と健全性」を再定義し、その目的に向けて最善の手段を選び直すことができればよいわけです。
ここでもやはりオラ方式は検討に値しそうです。たとえば人生の基本的な目的をおおざっぱに「幸福」とすると、幸福をもたらす要素を考えて、それら一つひとつを日頃から育てておくということです。幸福をもたらす要素という問いは大げさですが、健康とか家族とか人間関係とか経済的な余裕とか、まあふつうに思いつくものになるでしょう。
しかし要素が固定的では「冗長性」を高めているだけともいえます。あまり考えたくないシナリオですが、幸福をもたらす要素と思っていたものをすべて失うことだってありえるわけです。ゼロからの復活をも考えると、幸福をもたらす要素をつくり出す力もまた、レジリエンスの必要条件になってきます。
……だんだん大ごとになってきました。ここまでをまとめると、個人の復活力とは、次の力に集約できそうです。
- 自分の「基本的な目的」を定義できる
- その目的に照らして、現状の「健全性」を識別できる
- その健全性をものさしとして、目的のために行動できる
- 「極度の状況変化」にあったときに「基本的な目的」を再定義できる
1と4は内容が重複していますが、有事において1の力を発揮するのは別の能力と捉えた方がわかりやすいと考えました。
オラ方式を考えたので、テンプス方式も考えておきましょう。たとえば、○歳まではとにかく稼ぎ、それから家族に奉仕し、健康にも気をつけよう……という直列的な発想でしょうか。最後までたどり着ければすべての要素を満たしたことになってはいるものの、過程で訪れるであろう「極度の状況変化」には弱いと言わざるを得ません。しかもほんとうの“最後”まで行ったときには、もう幸福を感じることもできません。