投稿者: Koji Horiuchi

  • 147 着陸寸前で脚が降りなかったときにパイロットがするべきこと

    【非常事態におけるパイロットの心得(ANC)】

    1972年12月29日の21時20分(アメリカ東部標準時)にニューヨークを発ったイースタン航空401便は順調に飛行を続け、29日深夜にマイアミ国際空港へ着陸進入を行った。(略)事故当日の天候は良く、視程も良好であり、同機はILSの誘導に従い降下していった。

    ところが、いよいよ着陸態勢に入ってロフト機長が脚を降ろすレバーを操作したところ、前脚が降りたことを示す緑ランプが点灯しなかった。

    イースタン航空401便墜落事故 (Wikipedia)

    考えたくもないような事態ですが、実際に起きてしまいました。機長は何を考えるべきか?

    非常事態における行動原則として、パイロットたちが長年言い伝えている”ANC”という言葉があるそうです。アメリカ連邦航空局のサイトに、このANCに基づいたトレーニングコンテンツがありましたので、そのイントロダクションからANCが何を指すかを翻訳・引用します。

    • Aviate(飛行):航空機の制御を維持する
    • Navigate(操縦):現在地と目的地を確認する
    • Communicate(連絡):誰かに自分の計画とニーズを知らせる

    非常事態におけるパイロットの心得(ANC)*ListFreak

    実に単純なことのように思えます。でも、こういう原則を現場で実践するのが難しい。

    イースタン航空401便で起きたことはかなり解明されています。『55歳で29,000時間もの操縦歴を持つベテラン』(Wikipedia)の機長でさえ、小さなランプの故障に気を取られ、自動操縦が解除されたことに気づかなかった。つまり”Aviate”を数分忘れてしまった。それが、乗客・乗員176名が全員死亡という歴史的な大事故につながりました。

    【「任せる」フォーマットとしてのANC】

    上記のような例外はあるものの、ANCのような短い箇条書きが現場での対処に有効であることは間違いありません。だからこそ連邦航空局もANCを教えているのでしょう。

    とりわけ、「何が何でも飛行機を飛ばす」という最初のA(viate)が印象的です。パイロット向けの書籍で見つけた、面白いQ&Aを紹介しましょう。

    Q「フライト中、機体のドアが突然開いてしまったら?」
    A「飛行機を飛ばしなさい」

    John S. Denker “See How It Flies: Perceptions, Procedures And Principles Of Flight

    これは本物のQ&Aではなく、緊急事態に対処するための手順について書かれた章の扉の言葉です。 ドアが開くと機内には突風が吹き荒れますが、それでもパイロットがするべきは、まず飛行機を飛ばすことなのです。

    狭いコックピットで小さいチームを率いているパイロットの姿を想像して、ここ数年お付き合いしたリーダーやマネジャーの姿が浮かんできました。経営者の「もっと仕事を任せていきたいので、もっと自分で考えて行動してほしい」という願いのもと、思考スキルや問題解決スキルを高めるお手伝いをしてきた方々です。

    パイロットは、もっとも「仕事を任されている」職務の一つです。そのパイロットが、飛行機に積まれた多くのチェックリストの他に、自律的に行動するための原則を頭に入れています。この原則を借りれば、仕事を任せていくための日報のフォーマットが作れそうです。

    上司と部下は1日に1回、夕方に打ち合わせをするとしましょう。原則として、それ以外は部下は上司に連絡せず、上司も部下の進捗をチェックしないものとします。部下は次のようなフォーマットで日報を書きます。

    • Aviate:本日の行動とその結果
    • Navigate:本来あるべき状態と現状とのギャップを洗い出す
    • Communicate:ギャップを埋める計画と、そのために必要な資源を連絡する

    Aviate欄はすべて部下が独断で行った行動とその結果です。事前の優先順位づけが不足していたために部下が判断を誤っていたならば上司の責任です。優先順位づけを理解していたのに判断がずれていたら部下の責任です。

    両者が互いを振り返り、あらためて優先順位づけを確認します。上司は続けてNavigate欄とCommunicate欄を確認し、必要な支援を行います。

    軌道に乗ってきたら、定期的な打ち合わせを2日に1回、1週間に1回と減らしてみるのもよいでしょう。

  • 146 すでに持っているものを望む (wanting what you get)

    【幸福のコツは、新しい喜びを求めつつ、手にしているものに感謝すること】

    宝くじで大金が当たっても、その幸せは長く続かない。事故で回復不能な傷を負っても、その悲しみからやがて立ち直る。そういった事象から、人間の感情レベルには一定の設定値(Hedonic Set Point)があり、プラスまたはマイナスに大きく振れることがあっても、やがてその設定値に回帰していくと考えられています。

    このふるまいは、あたかも一定の温度を保つサーモスタットのようです(こういった心理を解説しているWikipediaの”Hedonic treadmill“というページには、サーモスタットの写真が載っています)。であれば、その設定値を引き上げられないか、というのがポジティブ心理学の興味の一つです。実にアメリカンな発想ですよね。実際、ITや経済学での貢献をみれば、こういったモデルやフレームワークづくりに関してはアメリカが抜きん出て強いことがわかります。

    それはさておき、その設定値を上げるコツは2つの諺に集約されるという記事を読みました(1)。やはりアメリカの大学による研究成果の紹介記事です。諺の部分だけ訳してみました。

    変化は人生のスパイス。
    Variety is the spice of life.
    作者不詳

    成功とは、望むものを手にすること。幸福とは、手にあるものを望むこと。
    Success is getting what you want. Happiness is wanting what you get.
    デール・カーネギー

    外からの刺激によって人間の感情は動くが、やがて戻ってしまう。ということは、新鮮かつポジティブな気持ちになれるような経験を常にすればよい。これがコツの一つめ「変化は人生のスパイス」です。

    超当たり前!ですね。ちなみに二つめは、すでに手にしているものに感謝し、それを慈しむことです。これもよくある話です。

    ここで「結局目新しい知見はないのか」とがっかりしてしまうと、2つめのコツに反することになってしまいます。既に手にしているものに感謝する気持ちをもって、これらのコツを眺めてみましょう。

    良いフレームワークは往々にしてシンプルなものです。幸福のコツはこの2つで必要十分でありそれ以外にはないというのであれば、われわれはすでに幸福になる方法を知っているわけで、あとは実践あるのみということになります。この二者はうまい具合に拮抗しているので、快楽主義にも自己満足にも陥らないあり方を教えてくれそうです。

    【すでに持っているものを、あえて望めるか】

    ところでカーネギーの言葉とされる”Happiness is wanting what you get.”は、この記事の解釈よりもう少し深いところを突いているように思えます。
    そう思わせるのは、すでに持っているものに満足する(satisfying)とか感謝する(appreciating)のではなく、欲する(wanting)という言葉の選択です。単純に前の一文と調子を合わせたという解釈もできますが、あえて深読みをしてみたいと思います。

    wantといえば、今持っていないものを望む・欲するという意味です。つまり、すでに手にしているものを、一度それがないかのように思い、望み直す。そのプロセスをはさんでなお欲しいと思えるのなら、実際にそれを手にしていることへの感謝や充足感がより強くなるという意味がこめられているのはないでしょうか。

    want what you get、持っているものをもう一度欲しがるということは、つまり「選び直す」ということです。ここまで敷衍して初めて、以前に書いた『やる気を見つけるために、現状を「選び直す」』というコラムを思い出しました。このコラムで書いたのは、「選び直す」というツールは自主性を取り戻すために使えるということです。

    選び直しは『過去に引きずられないためにも「選び直す」』で紹介したように現状維持バイアスから逃れるための心理学的な方策でもあります。『現在は過去か未来か』では、そういったアプローチが古代ローマから採用されていたことを学びました。

    今回学んだことによれば、「選び直す」エクササイズは幸福のコツのようでもあります。ちょっと解釈を重ねすぎたきらいもあるので、後日に立ち戻り、選び直してみたいと思います。

    「選び直す」ためには、手にしているものをあたかも手にしていなかったかのように見つめる努力が必要です。この作業はいつもわたしに禅の「初心」という言葉を想い起こさせます。こんな素晴らしい言葉もきっとポジティブ心理学が旺盛に取り込んでいくことでしょう。


    (1) Timothy Wall, “Happiness Model Developed by MU Researcher Could Help People Go From Good to Great” (2012) MU News Bureau.

  • 145 効果、対費用

    【こういうことがしたいから】

    長女(高校生)の担任の先生は、学級新聞と生徒向けのメールニュースを毎日書かれています。A4用紙1枚両面の学級新聞は生徒に配布されるだけでなくダウンロードもできます。メールニュースは親も購読できます。

    先日のメールニュースでは、文化祭のクラス企画がなかなかまとまらないことについて、こんなコメントをされていました。一部表現を変えて引用します。

    AはいやだからB。CがいやだからA。
    そういう発想ではなく、「こういうことがしたいから●●」という考え方でいきたいですよね。

    よく、費用対効果といいます。文化祭の場合、

      やりたいこと(面白さ) / いやな要素(準備の大変さ、当日の拘束時間の長さ)

    が大きな演し物が選ばれるはずです。先生のコメントは、分母に目が向きがちだった議論を俯瞰し、分子にこそ目を向けるべきだと呼びかけるものです。

    オブザーバーとして議論を観察していたであろう先生の鋭いコメントに感心しつつ、生徒の気持ちに共感もできて苦笑いしてしまいました。

    仕事でも、よく似た状況に陥ります。たとえば、あるチームが半年後の展示会の企画を考えているとします。業界に存在感を示し続けるのが重要という社長の信念によって出展はすでに決定されていて、何をするかがそのチームに任されている状況です。

    考えあぐねているうちに、展示会の日が近づいて来ます。準備期間が短くなるにつれて、いろんな制約が出てきます。人を確保できるか、新しい商品を揃えられるか、予算内におさめられるか、などなど。そういった制約が、できることを否応なく狭めていきます。そして消去法的に選択肢が1つになった時点で、なかば自動的に合意が形成されます。たとえば「昨年どおりでいくしかない」と。

    展示会の企画を選ぶための費用対効果は、まあ文化祭と似たようなものですが、社会人バージョンらしく要素を増やしてみます:

      (期待効果×実現可能性)/(費用×リスク)

    展示会の企画チームも、やはり分母ありきの意思決定をしてしまったといえるでしょう。

    【費用対効果でなく、効果対費用】

    展示会の企画は、上から降りてきた案件ということもあり、チームメンバーは「こういう効果が得られればすばらしい」という期待を醸成するのが難しかったかもしれません。

    もしあなたがチームのリーダーだったら、先生が生徒に視点のチェンジを促したように、チームの視点を分子に、つまり期待効果に向けるよう促すべきです。

    たとえば、もし検討の早い時点で「費用対効果ではなく、効果対費用を考えてみよう」と仲間に声をかけられたら、どうでしょうか。ちょっとした言葉の遊びではありますが、制約が高まるのを待って検討するアイディアを減らそうという発想から、そもそもどんな効果を期待したいかという発想へと、ちょっとしたシフトを促せるかもしれません。

    【比の大きさよりも、分子の大きさを考える】

    ふたたび文化祭の例に戻ります。たとえば分母(いやな要素)を1に固定してしまうと、分子(面白さ)に持ってこれるのはせいぜい2の企画でしかなく、4の企画は思いつくことすら難しくなってしまいます。

    一方で、分子が大きい企画は、えてして分母も大きいものです。いくら分子が4でも分母が2だったら、それは2/1と同じ、だから2/1案でいいじゃないかと、賢い生徒は言うかもしれません。

    でも実は、分子の絶対値が大きい方が、直後の充実感や長い目で見たときの満足度が大きいことを、先生は長い経験から知っているはずです。もし2/1案と4/3案があれば、4/3案を推すのではないかと、勝手ながら思います。

    ビジネスも、比だけでは判断できません。費用対効果の高い、つまり手間をかけずに儲けられる仕事があるとすると、それは現在の顧客の需要に自社がうまく応えられているからです。しかしそこに安住してしまうと、将来の変化についていかれません。次の成長の種は、ストレッチ・プロジェクト、つまり3かかるけど4得られそうな大変な仕事の中で拾えることが多いように思います。

  • 144 間違いは発見のもと

    【快楽中枢の発見は間違いから】

    1950年代、OldsとMilnerは、ラットの中隔領域に電極を挿入し、ラットがレバーを押すことで電気刺激するという実験を行ったところ、摂食や飲水もせずに押し続けるという行動がみられた。これにより、この領域が脳の「快楽中枢」であることが示唆された。
    側坐核 – Wikipedia

    米ヤーキス国立霊長類研究センター教授マイケル・クーハー博士は、著書『溺れる脳』で、この発見が間違いからもたらされたものであったことを教えてくれています。それによれば、両氏は『網様体とよばれる脳部位の電気刺激により、ラットの学習速度が上がるか否かを調べていた』そうです。

    実験の目的も刺激する部位も、まるで異なっています。それがなぜ快楽中枢の発見につながったのか。著書から抜き書きしながら、間違いに学ぶステップを取りだしてみたいと思います。

    1. 小さな違いに気づく

    この研究中、短時間の電気刺激を与えたラットのなかに、ケージ内でその刺激を受けた場所に素早く戻るラットがいることに気づいた。

    同じ刺激を与えたのに、特異な行動をとったラットがあった。当初の実験がどのようなものであったかは書かれていませんが、これは本来の実験とは関係ないところでの行動だったと思われます。それでもなぜか、偶然を発見に変える人はこの違いに気づきます。

    2. 違いの意味を考える

    これは、電極が埋め込まれている脳部位の刺激に関して、何かしら正の(好ましい)報酬効果や強化効果があったことを示唆している。

    その気づきから、意味を考えています。

    3. 違いの理由を探す

    驚いたことに、この行動を取るラットで、電極を埋め込んであったのは、網様体ではなく、中隔野とよばれる別の部位だった。電極を埋め込むべき部位が間違っていたのである。

    ここで間違いが発覚します。「網様体への電気刺激による学習速度の変化」という目的からすれば意味のない実験だったわけですが、彼らは他のメカニズムを発見したことに気づきました。

    4. 違いを証明する

    彼らは直ちに元の実験計画を中止し、この電気刺激の報酬効果と強化効果の研究を行うことを決めた。

    そこで当初の目的を捨て、発見した違いを追いかけるほうへと舵を切りました。

    【間違いに学ぶ】

    Wikipediaには淡々と書かれていた発見の背後に、こんなドラマがあったとは。わたしも、自慢になりませんが、間違いには事欠きません。せっかくなら何かそこから発見できないものかと思い、間違いに学ぶためにどうすべきかを考えてみたいと思います。

    1. 期待を明確にしたうえで、虚心に観察する

    彼らの発見で驚嘆すべきは、まず最初にラットのふるまいの違いに気づけたところです。違いとは、期待(こうなるはずだ)と現実の差異、あるいは期待の及ばないところでの特異点としてわれわれの前に現れるはずです。そういった違いを見つけようというメタな期待を持つことが、まずは必要そうです。

    2. 間違いではなく違いと見なす

    結局、ラットの特異なふるまいは実験の間違いから生じていたわけです。が、「間違い」は善悪の判断を伴った言葉です。しかし、彼らはその間違いとその結果を「違い」として捉え続けられています。間違いは正さねばなりませんが、違いは単なる違いです。だから新しい意味を探ることができました。

    3. 発見へと舵を切る

    最後に、研究テーマを変えるという英断がありました。1.では違いに気づくために期待を明確にすることを自分に課しましたが、当初の期待に固執してはいけないということでしょう。当初の期待は、何かを発見するために仮に置くものくらいに考えられるとよいのかもしれません。

  • 143 現在は過去か未来か

    【ストア派の奇妙な運命論】

    「いま」は、過去に属するのか未来に属するのか。そんな面白い問いを考えさせてくれる文章がありました。(ローマの)ストア派哲学を再発見し、自らの実践哲学ともしているウイリアム・B・アーヴァインは、『良き人生について』で、ストア派の運命論を再解釈しています。

    ストア派は、運命論を主張しつつ、将来のために全力を尽くしていました。これは矛盾のように思えます。本書から、ストイック(ストア派哲学の実践者)の運命論的姿勢がよくわかる文章を引用します。

    良き人生を望むのならば、出来事が自分の欲望どおりになるのを望むのではなく、欲望そのものを出来事に一致させるべきだとエピクテトスは言う。言い換えれば、出来事が「起こるように起こる」のを望むべきなのである。
    (p108)

    なぜ「欲望そのものを出来事に一致させるべき」なのか。それは、ストイックの考える「良き人生」が、心の平静だからです。なるほど欲望と出来事、つまり理想と現実のギャップが小さければ、心の平静を乱す要素も少なくなるでしょう。

    たちまち、それでは将来に対して無気力・無関心になってしまうのでは、という疑問が生じます。しかし、さすがにというべきか当然というべきか、それほど単純な思想ではありません。本書から、ストイックの脱運命論的とも思える姿勢がわかる文章を引用します。

    ストイックは、将来に控えていることに無関心ではなかった。(略)古代ローマの兵士たちも、勇敢に戦争におもむき、勇ましく闘った――闘いの結果が運命によって決められていると信じていたにもかかわらず。
    (p110)

    著者は、深い思想につきもののこういった曖昧さにていねいに向き合い、著者なりの解釈をほどこしていきます。これは、著者自身がストア派哲学を実践するために必要な作業でもあったのでしょう。解釈そのものもさることながら、そういった探求の過程が本書の魅力にもなっています。

    【起きたことは運命と思え】

    著者は、未来についての運命論と過去についての運命論を分けることで、この矛盾の解消を図っています。過ぎ去ったことについて思い悩まないために、起きたことは無条件で受け入れる。それがストイックの運命論だというのです。これはとてもわかりやすい解釈ですね(1)

    さらにもう一歩考察を進めて、ストイックは過去に加えて現在についても運命を信じるように勧めていると著者は言います。この解釈を読んで本コラムを書こうと思ったので、すこし長めに引用します。

    いまから十年、一日、あるいは半秒間でも、その間に起こることがらに影響を与えるように行動することはできるかもしれない。だがたったいま、この瞬間に起こっていることに影響を与えるのは不可能だ。なぜならたったいま起きていることに影響を与えようと行動したとたん、その瞬間はすでに過去にすべり込んでしまうからである。
    (p112)

    変えられないという観点からは、現在も過去と同じ。だから、今この瞬間がこうでなくああであったらと思い悩むのはやめようということです。

    【過去を過去と思える強さ】

    考えてみると「変えられない現在や過去について思い悩まない」というのは、一般的な運命論とは違ったラジカルな発想になり得ます。

    たとえばAさんは、ある会議が始まってすぐ、自分が必須の参加者ではないことに気づきました。時間も長くかかりそうです。次のどれがストイックらしい発想でしょうか。

    1. 「ああ、議題を確認すればよかった」「これで今日も残業確定か……」と後悔しつつ、せめて会議が早く終わるようにおとなしくしている
    2. 「自分は価値を出せそうにない。議長に確認してすぐに席を立とう」
    3. 「本当は参加する必要はない会議だが、応諾してしまった過去は変えられない。だからそれを受け入れ、せめてこの会議をよいものにするためにベストを尽くそう」

    1は典型的な「心ここにあらず」ですね。ストイックの戒めるところです。3は立派な態度ですが、著者の解釈(のわたしの解釈)に従えば、かならずしもストイックとはいえません。なぜなら、自分の過去の決定に未来をしばらせているからです(2)

    参加を承知した事実は変えられません。しかし、変えられない過去について思い悩まない人ならば、過去にしばられず「いま最善の選択」をするはずです。そのような発想からすると2の行動がもっともストイック的に思えます。3の行動もありえます。ただしそれは「過去に応諾してしまったから……」ではなく、あらためて会議に出る価値を見いだしたからでしょう。ちなみに選択肢にはありませんが、決めた時点で変えられないことと見なして一切悩まない(参加価値があろうが無かろうが参加と決めたので参加する)のであれば、それはそれで「変えられない過去について思い悩まない」態度です。

    そう考えると、ストイックの運命論(についての著者の解釈)はずいぶん前向きで激しいものにすら感じられます。わたしの再解釈をまとめておきます。

    いま起きていることもすでに起こったことも、変えようがない。だから、これから「現在」にすべり込んでくる瞬間を、つまり未来を、よく変えるためにできることをやれ。最後の最後の半秒間まで最善を尽くせ。


    (1) では逆に未来は何でも変えられると考えていたかといえば、そうではありません。このあたりは因果関係や自由意志についての考えと併せた説明が必要になるので、稿をあらためます。

    (2) ここではストア派の考えのごく一部だけを切り出して論じています。実際に始まった会議を中座するかどうかの判断には、人間関係など他に考慮すべき事柄があります。ストイックは必ず上記のように行動するはずだという話ではありません。

  • EQ+リーダーシップ

    EQ+リーダーシップ

    Day1とDay2の間が3カ月空く研修だったので、Day1では具体的な行動目標を立てていただきました。

    Day2ではDay1からの行動を振り返り、EQ行動がどう変化したかを自分で予測してもらいました。そのうえでDay2後にどうしたらよいかを考えてもらいました。

  • 142 人格的知能(Personal Intelligence)

    【感情的知能理論の成熟】

    1990年にEI理論(EQ理論)を提唱した、ニューハンプシャー大学のジョン・D・メイヤー博士が、新作 “Personal Intelligence: The Power of Personality and How It Shapes Our Lives” を著しました。『人格的知能:パーソナリティの力がわれわれの人生をどう形づくるか』と仮訳しておきます。

    一般に「IQだけでなくEQが大事」というとき、それは「理だけでなく情が大事」という言葉とほとんど同じです。言ってみれば、ロジック以外のすべてをEQという言葉で代弁しています。EQという言葉が広く知られるようになった理由の一つは、このような「IQで掬えないものすべて=EQ」であるかのような定義の曖昧さにあると思います。

    これは洋の東西を問わず起きている現象です。今回の本で、博士は次のように述べています。

    『EQブームの中で、一部のジャーナリストがわれわれの理論を大きく踏み越え、感情的知能を個人の全人格と同一視するようになった。彼らは意図、特質、動機、あるいは人生の物語といった、感情と同じくらい重要なものについてはほとんど言及しなかった』

    実際には、メイヤー博士らが提唱した感情的知能理論(Emotional Intelligence Theory)は、文字通り情動(emotion)を扱う知能(intelligence)「だけ」を体系化したものです。これは能力モデルとしては厳密ですが、実用性という観点からいえば十分ではありません。

    そこで、感情的知能を発揮した結果である行動を体系化する取り組みを始めました。『EQ こころの知能指数』で知られるダニエル・ゴールマンが採用しているのはこちらのアプローチに近く、彼は自身の体系を「EQコンピテンシー」と呼んでいます。

    メイヤー博士らのEI理論そのものは、2005年あたりから成熟期に入っているといえると思います。別の表現をすると、最近の発表は応用事例やポジションの明確化(EI理論が何であって何でないかをはっきりさせること)が中心で、理論そのものの深化・進展はありません。

    【感情的知能から人格的知能へ】

    EI理論に目処をつけた博士自身の興味は、感情からパーソナリティへと移っていきました。本書にはその過程も書かれています。2007年の夏には、パーソナリティについて「賢い」とは何を意味するのかという疑問への回答が形づくられていたようです。

    “Personality” には、一般的に「人格」という訳語が当てられます。ただし、われわれが日本語で「あの人は人格者だ」と言うときに込めるような、「格」という言葉がもたらすニュアンスはありません。中立的に「ある人に、その人らしさをもたらしている性質」という意味合いです。

    ではさっそく、理論の骨子を見ていきましょう。知能とは情報を用いて問題を解決する能力です。したがってPersonality Intelligenceとは、パーソナリティを情報として用いて問題を解決する能力です。その能力が発揮されるべき領域を、博士は4つ定義しています。

    • パーソナリティについての情報を見極める (Identifying Information about Personality)
    • パーソナリティのモデルを形づくる (Forming Models of Personalities)
    • 内なる気づきに基づいて個人的な選択を導く (Guiding Personal Choices with Inner Awareness)
    • 計画とゴールを体系化する (Systematizing Plans and Goals)

    人格的知能(Personal Intelligence)が発揮される問題解決の4領域*ListFreak

    ちょっとわかりづらいですね。引用元には、それぞれの領域の例が添えられていたので、それも訳したうえで、わたしの理解を書き込んでみます。

    • パーソナリティについての情報を見極める
      • (例)表情からパーソナリティを読む
      • (例)内省の方法を知っている

    第1の領域は、問題解決のために他人や自分に関する情報を得ることです。人を観察することといえるでしょう。

    • パーソナリティのモデルを形づくる
      • (例)自分と他者の特質を分類する
      • (例)動機と意図を理解している
      • (例)防御的な思考を認知している

    第2の領域は、観察によって得られた情報にもとづき、パーソナリティを解釈することといえるでしょう。観察結果と知識を組み合わせ、直接は見えない意図・特質・動機・人生の物語を含めて、人を理解することのすべてがここに含まれていると思います。

    • 内なる気づきに基づいて個人的な選択を導く
      • (例)個人的な興味を発見している
      • (例)自分のパーソナリティを念頭に置いて決定している

    第3の領域は、解釈によって得られたパーソナリティを自分の決断に組み込み、自分らしい選択を導くことといえるでしょう。

    • 計画とゴールを体系化する
      • (例)満足できる人生の方向性を見つけている
      • (例)社会の期待に応えられるようにライフプランを合わせる
      • (例)人生において意味のあるテーマを見つけている

    第3の領域がどちらかといえば一回一回の選択を指していたのに比べ、第4の領域が対象とするのはより長期的な内容です。いわば自分を方向づけることといえるでしょう。わたし自身は、このコラムでいう「意思決定」が第3領域、「意志決定」が第4領域だと理解しました。

    【自分らしく生きるための知能】

    まとめると、人格的知能とは「自分らしく生きるための知能」といえそうです。

    博士がPersonalityに興味の軸足を移したと知ったとき、最初は、大変失礼ながら「性格は変えられる!」みたいな怪しい領域に足を踏み入れてしまったのかと思いました。実際はむしろ逆で、人間は環境さえ整えばいくらでも変わっていけるといった安直な考え方に釘を刺し、持って生まれたもの、変わらないもの、ある人をその人たらしめている一貫性もまた存在することを述べています。

    理論には、提唱者の世界観が反映されます。EI理論では、感情的知能とは「感情を思考に組み入れて選択する能力」だというのが、わたしの理解です。PI理論では、人格的知能とは「パーソナリティを組み入れて生きる能力」だと、わたしは理解しました。

  • 141 芸術家の驚き、科学者の驚き、改革者の驚き

    【よく驚ける人がよく考えられる】

    「自分で考える人材を育てたい」。顧客企業からもっともよくいただくご相談です。もちろんその支援をしますと謳っているのでそういう話題が多くなるわけですが。

    今回は自分で考えるという言葉をすこし掘り下げつつ、人に何かを考えさせる源に向かいます。

    考えるというプロセスは、何らかの問いの答えを探すという形で進行しています。「どう生きるべきか」という深遠な問いから、「今日のランチはどうしようかな」という日常的な問いまで、およそ何かを考えるとき、意識するしないに関わらず、そこには問いが張りついています。

    ということは、自分で考えるためには、まず問いを思いつかなければなりません。

    では、人に問いを思いつかせるものは何か。一冊まるごと問いの本である、アンドリュー・ソーベルらの『パワー・クエスチョン』によれば、アインシュタインはこう言ったそうです。

    「私には特別の才能があるわけじゃない。ただ好奇心が旺盛なだけだ」

    好奇心とは「珍しい物事・未知の事柄に対して抱く興味や関心」(『大辞林 第三版』)のこと。好奇心が問いを思いつかせるものとして、さらにさかのぼります。

    人に好奇心を抱かせるものは何か。それは驚きの感情(情動)です。
    人は驚きの情動を受け取ることで、目の前の事象が「珍しい物事・未知のことがら」であることを認識します。このとき同時に不快の情動を受け取ると恐怖や怒りが生まれます。そうでなければ好奇心が生まれ、探究を促します。

    ここまでは知識の整理。ここからが今回の探究です。さらにもう一段階だけ遡って、人を驚かせるものは何かを、今回は好奇心につながるものに絞って、考えてみましょう。

    いろいろと考えた・考えさせられた経験とそのきっかけを思い出し、まとめてみます。

    【芸術家の驚き、科学者の驚き、改革者の驚き】

    まず驚きには、能動的な驚きと受動的な驚きとがあるように思います。

    能動的な驚きとは、当人が強い予断あるいは理想像を持っていたために生じる驚きです。つまり、あらかじめ「こうあるべき」というはっきりしたイメージを描いていたので、そうでない事象に出会ってびっくりすることです。

    受動的な驚きとは、それ以外の驚き。当人は特に予断を持っていなかったにも関わらず、ある事象に出会ってびっくりするということです。

    受動的な驚きは、さらに感覚の驚きと理屈の驚きに分けられそうです。

    感覚の驚きとは、たとえば夕焼けの見事さに驚くといった、感覚的で、それだけで完結した驚きです。

    理屈の驚きとは、理に適っていないことが起きたときに生じる驚きです。路上の石が浮かび上がったら、驚きますよね。これはわれわれの経験的な理(ことわり)に適っていないことが起きたからです。

    それぞれの驚きに名前を付けましょう。感覚の驚きは「芸術家の驚き」、理屈の驚きは「科学者の驚き」、能動的な驚きは、やや大げさですが「改革者の驚き」でどうでしょうか。

    それぞれの驚きは、異なったアウトプットへの欲求へとつながっているように思えます。芸術家の驚きは表現、科学者の驚きは探究(思考)、改革者の驚きは行動へと、駆り立ててくれそうです。

    最初の問いに戻って整理します。自分で考える人とは、自ら驚きをつくり出せる人です。自ら驚きをつくり出すために、たとえば芸術家の目で、科学者の目で、そして改革者の目で、日常業務を観察するトレーニングを積むという案が使えそうです。

    今回のコラムを振り返ると、科学者の驚きがあったように思います。なにかが理に適っていないというよりは、「自分で考える」ことを理屈づけようとして理がよくわかっていなかったという驚きから、あれこれと考えがふくらみはじめました。

  • 140 手ぶらだから出せる知恵

    【手ぶらでも常に持ち歩いているもの】

    あるラテン語の格言の出典を確認したくて、柳沼 重剛『ギリシア・ローマ名言集』という本を読みました。タイトル通り古代ギリシアとローマの名言が、短い解説とともに並んでいます。その中に印象的な一節がありました。解説の一部とともに引用します。

      私のものはすべて、体といっしょに持ち歩いている。
      omnia mecum porto mea.
      (キケロ『ストア派の矛盾について』8)

    ギリシアの七賢人の一人ビアスが、祖国プリエネが占領されたとき、だれもが家財をもって逃げる中に、彼が何ももたずに逃げるので、人々が「あなたも何かもって行った方がいい」とすすめると、彼が上のように言ったという。「私のもの」とは「知恵」である。

    知恵こそ常にわれわれが持ち歩いているもので、その真価は持ち物をすべて失ったときに発揮されます。アウシュビッツ収容所に入れられてなお、精神の自由を奪わせなかったヴィクトール・フランクルを思い出しました。

    今回は、祖国を失ったり収容所に入れられたり大災害に遭ったりといった大変な状況でなく、日常的なシーンで「知恵以外何も持たない」状況を考えてみます。

    フランクルの次に思い出したのは、仕事や生活のさまざまなシーンでした。何も持たずに何かをする機会は意外に多いことに気づいたのです。たとえば顧客ヒアリング。あるいは講義の中の質疑応答。さらには職場や家庭での雑談。

    意外に、そんなときに自分の知恵が問われているのだなあと、思いを新たにしました。

    【何も持たずに仕事をする】

    この「何も持たずに何かをするときに知恵が問われる」という発想は、仕事のエクササイズとして活用できそうに思います。

    たとえばセールスであれば、一切の資料を持たずに受注することができるかを考えてみるということです。あまりにも厳しいならば、初回訪問を資料なしでやりおおせ、次回訪問につなげられるかを考えてみます。

    パンフレット・デモなど一切の資料は使いません。ただし紙かホワイトボードに書きながら話をすることはOKとします。

    するとどうなるか。まずは話す内容を厳選せざるをえません。厳選する以上、自分の言いたいことではなく相手の聞きたいことを話したいと思うでしょう。少ないポイントで網羅性を高めるため、話の枠組みを考える(例:品質・納期・価格の3点からアピールしよう、など)はずです。さらに記憶を確かなものにするために、ストーリー仕立てにするなどして話に一貫性を与える工夫を施すでしょう。

    何も見ずに話せるまでに練られた話であれば、それは聞き手にもわかりやすい話になっているでしょう。「何も持たない」と想定することで知恵が引き出せたことになります。

    会議も「何も持たない会議」をしてみます。たとえば社内プロジェクトを立ち上げたいという提案について話し合う会議としましょう。提案者は一切の資料を用いずに提案し、メンバーは一切の資料を見ずに決断しなければなりません。

    「何も持たない研修」も面白いですね。テーマを問わず、一切のスライドも配布資料も無しで丸一日を費やして研修をするとしたら、どのように進めるか。じっくり考えてみようと思います。

    【目をつぶって話を聞く】

    何も持たずに仕事をするなど、エクササイズにしても荒唐無稽に思われるかもしれません。でも最近すこし似た話を読んだことを思い出しました。広告の提案をチェックする際に、目をつぶってしまうという上司の話です。博報堂のクリエイティブディレクター小沢正光の『プロフェッショナルプレゼン。 相手の納得をつくるプレゼンテーションの戦い方。』から引用します。

    そのクリエイティブディレクター(引用者注:上司)は、じっと目をつぶって話を聞くのだ。そして、聞き終わると、「なるほどね。でも、わかんねぇよ、小沢」と、バッサリ斬り捨ててしまう。

     正直なところ、これには弱った。ビジュアル重視のデザイナーでもある人なのに、ビジュアルを見ずに話だけを聞くのである。企画書も、広告表現の案も見てくれない。頼りは話の内容だけ、だ。論旨の明快さを求める姿勢は、このときにずいぶんと植えつけられたように思う。

    目をつぶって話を聞くことは、何も持たない相手の話を聞くことです。相手の知恵を聞くといってもいいでしょう。 このように仕事をしている人もいるのです。

  • 139 聴き上手は話させ上手、決め上手は何上手?

    【聴き上手は聴き上手にあらず】

    『世の中には、「聴き上手」といわれる人がいます。これは聴くのがうまい人のことではありません。』

    失礼ながら斜め読みをしていた本に、ふと引っかかりる箇所がありました。「聴き上手」イコール「聴くのが上手い人」ではないとしたら、いったい何なのか。

    読んでいたのは森田 幸孝さんという方の『コミュニケーション能力を鍛えよう! 聴く技術と伝える技術』という本。聴き上手とは、

    『相手に話をさせるのが得意な人のことを言っているのです。』

    とのこと。一瞬、単なるレトリックのように感じました。聴くというのは相手に話してもらうことなのだから、同じではないかと。でも、違いますね。「聞くのではなく聴くのです」というくらい傾聴に興味のある聴き手に全力で傾聴されると、かえって話しづらかったりします。

    わたし自身、聴き上手になったつもりでうまくいかなかった、最近の経験を思い出しました。

    先日、拙著(『クリエイティブ・チョイス』)を読まれた方から、自分の経験を聴いてほしいというご連絡をいただきました。わざわざ会いに来てくださるからにはきちんと拝聴しようと決めて、お目にかかりました。

    自己紹介をして、お互いの経歴や興味など当たりさわりのない話をして、いよいよ本題……に、なかなか入りません。すこしためらわれているようでしたので、急かしてもよくないと思い、こちらもあえて水を向けませんでした。

    それでどうなったか。そのまま終わってしまったのです! おそらく本題かな、という話題の周辺を行き来しつつ、時間切れになってしまいました。いろいろ話ができたことを喜んではくださったものの、「緊張してしまい、用意した話題の半分も話せませんでした」という言葉をお聞きして、自分の失敗を痛感しました。いわば「聴いたが、話させなかった」のです。

    聴くのは自分ですが、話すのは相手です。「よく聴いてもらえた」というジャッジをくだすのも、相手です。もし「(自分が)よい聴き手になろう」でなく「(相手に)話してもらおう」という意識を強く持てていたならば、会話も違った展開になったでしょう。

    その意識を持つために、視点を変えて相手の立場に立った言葉づかいで考えるのは、有効そうに思います。たとえば、聴き上手は話させ上手です。逆説的な表現でわたしの目を引きつけた著者は、書き上手というより読ませ上手です。同様に、伝え上手は分からせ上手、教え上手は学ばせ上手です。

    【決め上手は何上手?】

    せっかくですから、当コラムのテーマである「決める」についても、同じように視点を変える言い換えを考えてみます。「決め上手は決めるのが上手い人ではありません。~な人なのです」と言える、気の利いた表現があるでしょうか。

    マネジャーとしての決め上手と、個人としての決め上手に分けて考えます。これまでの論法に則って考えれば、「決め上手なマネジャーは従わせ上手」ということになります。ただこれでは、自分が決めて部下に従わせるという、いかにも上意下達なマネジャーのように感じられます。

    決め上手なマネジャーは、自分の決定を、部下が自らの意思でそれを決めたと思えるように運ぶでしょう。「決め上手なマネジャーは決めさせ上手」だと思います。

    個人としての決め上手を言い換えるのは、なかなか難航しました。これまで見てきた行動には相手がいますから、相手の立場に身を置いて考えることができました。しかし個人においては、決めるのも自分、その結果を受けとめるのも自分です。

    では、決めたことを後から振り返ったとき、そのよしあしは何で測られるだろうか。そう考えてみると「決め上手は満足上手」という言葉が浮かんできました。

    起業や転職などの個人的な意思決定を例に考えてみます。ふつう「決め上手」といって思い浮かぶのは、よい結果が得られそうな選択肢を早く見つけ出せる人でしょう。決定に至るまでのプロセスにおいて最善を尽くすべきことはいうまでもありません。「決め上手は決めかた上手」であるべきです。

    しかし最善を尽くしてもなお結果が保証されないのが意思決定というもの。特に個人的な意思決定においては、よしあしを判断するのは自分であり、その判断基準も主観的でよいわけです。ならば結果を上手に受け入れること、つまり満足上手であることも、決め上手の一つの側面だといえるでしょう。アメリカの心理学者バリー・シュワルツは、著書『なぜ選ぶたびに後悔するのか』でマキシマイザー(つねにより多くの選択肢を求めたがる人)よりもサティスファイサー(少ない選択肢で満足できる人)のほうが幸福度が高いと指摘しています。