投稿者: Koji Horiuchi

  • 119 薫習(くんじゅう) 〜 経験に学ぶ

    ●薫習(くんじゅう)

    素敵な言葉だなあと、思わずメモしてしまいました。1)

     平安時代の貴族たちが、衣服に香をたき込めたように、経験がしっとりと人格の中に浸透していくのを〈熏習(くんじゅう)〉というのです。

     『顕識論』という本には、「香を焼くと衣服にその香りが浸み込んでいく。香はなくなっても、しみこんだ香気はいつまでも衣服に芳(かお)っている。熏習とはちょうどそのようなものだ」といっております。

    「衣服に香をたき込めたように、経験がしっとりと人格の中に浸透していく」と書かれると、良い経験だけが都合よく浸透してくれるかのように思えてしまいます。もちろん、そうではありません。見た・聞いた・嗅いだ・味わった・触った・考えた経験のすべてがいやおうなく貯蔵されていくことを意味しています。

    著者は薫習の概念を説明するために、洞山良介という中国の禅僧の言葉も紹介しています。こちらのほうが、経験がいやおうなく人格に浸透していくというイメージを持ちやすいかもしれません。

    「ちょうど霧の中を行くようなものだ。衣服を濡らしたわけではないのに、いつの間にかしっとりと湿ってしまう」

    「良い経験」と書きましたが、何が良い経験になるかは分かりません。病気や怪我など不如意なアクシデントでさえ良い経験だったと振り返ることができる、たくましい人もいます。

    何が良い経験になるか分からないのなら、とにかく何でもたくさんやっておくのが合理的な戦略のように思えます。しかしもしそうなら、薫習という概念を奉じる大乗仏教の信者は坊さんになどならず、何でもやってみる修行を自分に課すでしょう。実際のところ、あの人は何十カ国を旅したことがあるから薫習の深い人格者だ、と単純にはいえなさそうです。

    ●経験に学ぶ

    ここから先は、薫習という言葉だけを借りて、経験に学ぶことについて考えてみます。

    旅は体験ですが、薫習されるのは経験です。経験とは体験と感情のセットです。体験の詳細はやがて忘れてしまいますが、そのときの状況と感情は、われわれの経験データベースに刻まれています。そしてわれわれがある状況を感知したとき、情動システムが経験データベースを検索し、過去似たような状況で起きた顛末(から生じた気持ち)を、情動としてわれわれに伝えます。

    ※ このあたりの考察は、過去の『「近道」的思考を磨く』などのコラムをご参照ください

    たとえば人前で話をさせられて失敗して嫌な思いをしたとすると、人前に出ようとするたびにモヤッとしたものが胸をよぎります。このモヤッは当人の意図とは関係なく学習されたものですから、薫習といっていいでしょう。

    さて、経験を感情を伴った体験の記憶とすると、いくつかの考察が導かれます。

    一つめは、ひとつの体験が複数の経験の種となりえること。先の例でいえば、リアルな体験のときには嫌な思いをしたかもしれませんが、後で思い返しながら追体験をして「でもチャレンジする機会をもらえてよかった」という気持ちを持てたとします。一つの体験から相反するような感情が導かれたわけですが、これらは二つの経験としてカウントできると思います。つまり、体験の数だけでなく、それをどのように振り返るかによって経験の豊かさは変わるだろうということです。

    二つめは、「脱薫習」というか、経験の浸透によって形成された人格の書き換えも、ある程度は可能だろうということ。記憶と忘却は同じメカニズムの表裏のように思えますが、人間が意図して行えるのは記憶だけであって、意図して忘れ去ることはできないといいます。いちど薫習されたものは永久に消えないのかもしれません。

    しかし一方で、記憶を混乱させる効果的な方法は知られています。それは新しい記憶を重ねることです。とくに、すでに記憶していることと似て非なることを記憶しようとすると、それが以前の記憶に干渉して記憶が混乱する、つまり事実上の忘却が起きるそうです。

    上記をまとめて、いやおうなく人格に染みこんでいく香りを、少しでも自分の望ましいものに近づけるための心得のようなものを考えてみました。

    • こうありたい、こうふるまいたいというイメージを持つ(←望ましいイメージがなければ成功失敗の判断もない)
    • 場数を踏む、つまり体験する(←体験がなければ経験もない)
    • 体験のたびに、そのイメージに照らして成功失敗を振り返り、感情的に評価をする。つまり成功であれば嬉しい(もう一度やろう)と思い、失敗であれば悔しい(同じ失敗は二度としない)と思う(←この感情が経験データベースを築く)
    • 失敗の場合でも、「こういう面では成功といえる」と限定するなどして、肯定的な感情も見いだす(←小さくとも成功がなければ望ましいイメージに近づけない)
    • そのような肯定的な感情が持てるような成功体験を多く積み重ねる

    (1) 太田 久紀 『仏教の深層心理』(有斐閣、1983年)より。いくつかの辞書にあたってみると、「熏」より「薫」が一般的に用いられているようです。わたしも薫のほうが香りを連想しやすいので、以下〈薫習〉と記します。ちなみに「熏」に火偏をつければ燻(いぶ)すで、〈燻習〉もよさそうに思いましたが、この用字例は辞書にはありませんでした。

  • 118 八休

    安岡正篤は、太平洋戦争における終戦の詔、いわゆる玉音放送の原稿作成に関わり、また平成という元号の発案者として知られる思想家です。先日、著書『百朝集』を読みました。よいリストの宝庫なのですが、なかでも「八休」(はっきゅう)にはハッとさせられる項目が並んでいました。これは金 蘭生『格言聯壁』という書籍からの引用だそうです。

    1. 消し難(がた)きの味は食するを休(や)めよ
    2. 得難きの物は蓄ふるを休めよ
    3. 酬(むく)い難きの恩は受くるを休めよ
    4. 久しくし難きの友は交はるを休めよ
    5. 守り難きの財は積むを休めよ
    6. 雪(そそ)ぎ難きの謗(そしり)は弁ずるを休めよ
    7. 釈(と)き難きの怒は較(あらそ)ふを休めよ
    8. 再びし難きの時は失ふを休めよ

    八休*ListFreak

    しかし浅学の悲しさよ、言葉の調子が良いので分かった気にはなっても、なかなか腹に落ちてきません。そこで一つひとつ意味を考え、現代語訳を作ってみることにしました。他の著作に解説があるかもしれませんが、自分の学びのためですので自己流でいきます。

    1. 消し難(がた)きの味は食するを休(や)めよ
    →やめられそうにない愉しみからは、距離を置く。

    「消化の悪いものは食べるな」という意味のようにも思えます。しかし「消し難きの味」ですから、消す対象は食物ではなく味です。とすると
    「忘れられない(=記憶から消せない)ほど美味しいものは、食べるのをやめる」(なぜならその美味に淫してしまうから)
    と解釈するほうが妥当なように思います。さらに「味を消す」という言葉を「味をしめる」の反対の意味だと捉えると、解釈をさらに一般化することができます。つまり口だけでなく五感で、妄想の類いも数えるならば六感で感じる「味」について、淫するな、中毒になるなという教えだと捉えてみたいと思います。

    なお、食するを「休めよ」ということは、現在そういうものを食べていることが前提にあります。しかし、この項目に限らず、「○○をやめる」ではなくシンプルに「○○しない」と訳しました。こちらのほうが予防的な調子にもなってよいかと。

    2. 得難きの物は蓄ふるを休めよ
    →手に入れるのが難しいものは、集めない。

    コレクションに執着してしまうことへの戒めと理解しました。

    3. 酬(むく)いが難きの恩は受くるを休めよ
    →お返しできそうにない恩は、受けない。

    お返しできそうにない恩を受け続けるのは心苦しいですね。ただ、そういうのんびりした解釈よりは「一方的に恩を着せられると、将来それを理由に従属させられるリスクがあるぞ」というメッセージのほうが強いのかな、とも思います。どちらの理由にせよ、お返しできそうにない恩はそもそも受けないのが無難。とはいえ、すでにお返しできないほどの恩をいろんな方から受けてきています。

    4. 久しくし難きの友は交はるを休めよ
    →長い友情を育めそうにない友人とは、つきあわない。

    「お久しゅうございます」といえば「久しぶりに会いましたね」という意味です。すると「お久しゅう、と言えそうにない友とは交わるのをやめよ」、つまりダラダラつるむだけの交友関係を整理しなさいという意味……かと最初は思いました。実際、真の友人は長い間会わなくても通じ合えるものですからね。

    しかし、この用法は挨拶語であり、「久しくし難きの友」を「お久しゅう、と言えそうにない友」と訳すのには無理を感じます。ダラダラつるむだけの友と言いたければ「久しく離れ難きの友」とすればよい話です。

    「久しい」の本来の意味は「時が長く経過している。また、行く末が長い」(広辞苑 第四版)です。友として久しくするということは、友としての「時が長く経過している。また、行く末が長い」という意味。すると「久しくし難きの友」は「長い友情を育めそうにない友人」と解釈するのがよいと考えました。この定義のもとでは、ダラダラつるむだけの友も「長い友情を育めそうにない友人」に含まれますし。 

    5. 守り難きの財は積むを休めよ
    →守れそうにない財産は、蓄えない。

    この項目、実はピンと来ていません。「守り難きの財は」積むなということは、守り易きの財は積んでもよいのでしょうか。仮に十二分な財産があり、立派な倉を建てて財産を守れそうであれば、蓄えてもよい……と言っているとは思えません。

    財は守れてもせいぜい死ぬまでで、子孫に残したって守ってくれるとも限らない。財はすべからく守り難いものとみなして、必要以上に貯め込むなという意味だと解釈しています。

    6. 雪(そそ)ぎ難きの謗(そしり)は弁ずるを休めよ
    →誤解を解けそうにない誹謗中傷には、答えない。

    頭韻が踏まれているせいか印象に残ります。特にネットでは、一方的に非難を浴びることがあります。論理を尽くしても感情に訴えても自分の意が通じないならば、黙るのも知恵かもしれません。雪ぎ難いと判断するタイミングが難しいわけですが。 

    7. 釈(と)き難きの怒は較(あらそ)ふを休めよ
    →怒りが収まりそうになければ、それ以上争わない。

    怒っているのが自分でも相手でも、同じでしょう。怒りが怒りを呼ぶような状態になってしまったら、いったん頭を冷やすこと。 

    8. 再びし難きの時は失ふを休めよ
    →二度と訪れそうにない機会なら、あきらめない。

    ここまで中道を行くリストだったのに、最後にこういう熱血項目(?)が出てくるとは。「得難きの物は蓄えるを休めよ」の精神でいくと、二度とない機会だと思い込むと判断を誤るから、見逃してしまえという教えでもおかしくない気がします。もしかしたら原典では違う意味だったのかも、と思わなくもありません。でも最後にこの項目が置かれているおかげでリストの印象がぐっと強くなるのもたしかです。

    あらためて、まとめます。

    1. やめられそうにない愉しみからは、距離を置く。
    2. 手に入れるのが難しいものは、集めない。
    3. お返しできそうにない恩は、受けない。
    4. 長い友情を育めそうにない友人とは、つきあわない。
    5. 守れそうにない財産は、蓄えない。
    6. 誤解を解けそうにない誹謗中傷には、答えない。
    7. 怒りが収まりそうになければ、それ以上争わない。
    8. 二度と訪れそうにない機会なら、あきらめない。

    八休(私家版)*ListFreak

  • 117 AXARA原則

    ● ALARA原則

    放射線の危険性について論じた記事で、ときどき ALARA(アララ)というかわいい名前を見かけます。先日読んだ本にもありました。(1)

    ICRP(*)の基準のベースになっているのは、これまで見てきた被爆による癌のリスクについての「公式の考え」と、もう一つ「ALARA(アララ)原則」と呼ばれる重要な考えである。ALARAとは、”As Low As Reasonably Achievable” の頭文字を並べたもので、「合理的に達成できる範囲で、できる限り低く」という意味だ。ICRPとしては、「公式の考え」で「線形閾値なし仮説」(**)を採用した以上、どんなに低線量でも放射線被曝は有害だとみなす立場をとることになる。しかし、(自然被爆以外の)被曝をゼロにすることを目標にしてしまうのはおそらくナンセンスだ。(略)さすがにそれは無茶だということで、放射線被曝によって生じうる害と、その他の利益を秤にかけて、上手にバランスさせながら、被曝量をできる限り低くしていこうと考えるのである。

    (*) 国際放射線防護委員会

    (**) ある程度以上の線量を被曝した場合には、被曝線量が多いほど癌も増加する関係にあることが、調査によって分かっている。しかし被曝線量がごく少なくてもその関係が成り立つかは、まだ分かっていない。そこで被曝線量の少ない領域でも、多いところで見られる関係が成り立っているだろうと仮定する考え。LNT(Linear-Non-Threshold) 仮説とも。

    アメリカ保健物理学会のサイトからは、このALARA原則がより大きな枠組みの中に含まれていることを学びました。(2)

    その内容を簡単にまとめてみます。ICRPは「線形閾値なし仮説」を採用したうえで、つまりどんなに少なくても放射線にはリスクがあると仮定したうえで、放射線被曝を制限するために考慮すべき3つの要素を提案しています。

    一つめは【正当性】。ある人を放射線が照射される環境に置くためには、それを正当化できる理由(たとえば期待される便益)がなければならないということです。例として、自分に合う靴を見つけるために足のレントゲン写真を撮るサービスが挙げられていました。これは正当性の観点から廃止されたとのこと。

    二つめは【最適化】。これがすなわちALARA原則です。

    三つめは【上限の設定】です。理由が何であれ、これ以上は被曝してはいけないという値を決め、それを守るということです。

    ● AMARA原則

    記事で見かけていたときは「合理的に達成できる範囲で、できる限り低く」なんて、当然すぎるように感じていました。わざわざ頭字語を作って原則という名前を冠するほどのものかと。しかし上記のような枠組み作りの過程を学んだあとでは、なるほどこういう原則を明示しておくのは重要だと思えます。

    特に【正当性】と【最適化】の2つは、われわれを「思考停止」からうまく救ってくれそうです。

    放射線を、ただ「便利だから」という理由で用いるのは、思考停止というよりは「思考なし」でしょう。とはいえ「少しでもリスクがあるものはすべてダメ」というのもまた思考停止のそしりを免れません。【正当性】を考えることは定性的に、そして【最適化】を考えることは定量的に、放射線被曝にどう向き合うべきかを考えさせてくれます。

    考えてみると、ほかのことでも明示的に「合理的に達成できる範囲で、できる限り多く/少なく」を、意識するべき対象があります。これらはそれぞれ “As Much As Reasonably Achievable” (AMARA) 原則、”As Little As Reasonably Achievable” (ALARA) 原則と呼ばれるべきでしょう。もっと一般化して “As Xxx As Reasonably Achievable”、つまり AXARA(アクサラ)原則と呼ぶのが妥当かもしれません。

    たとえば新しい思考法を学ぶとき、つい「こんなめんどうな考え方を日常業務でやっていたら、日が暮れてしまう!」と感じるときがあります。しかしそれは「すべての考えるシーンで使えなければ学ぶ意味がない」と言っているようなものです。もしかしたら、新しい考え方を学ぶ辛さに脳が悲鳴を上げて持ち出してきた、逃げ口上かもしれません。

    そんなときは、AMARA原則を思い出すべきタイミングです。「合理的に達成できる範囲で」できる限りたくさん学びを活かしていこうと考えれば、「すべてのシーンで活かさなければ」という堅苦しさから逃れられます。一方で「できる限りたくさん」なので「まあ、活かせそうな機会を待とう」という怠け心を戒めてもくれます。 


     (1) 田崎晴明『やっかいな放射線と向き合って暮らしていくための基礎知識』(朝日出版社、2012年)

    (2) ALARA Principle, Health Physics Society, as of 5/17/2013

  • 116 思慮深さの研究

    ●論理という刀を振り回し、相手も自分も傷つける

    よく「ロジカル・シンキングには限界がある」という言葉を聞きます。一番よく聞くのは、ほかでもないロジカル・シンキングのトレーニングの現場です。だいたいは、新しい思考スキルを身につける面倒さに耐えかねての発言だったりするので、その場では「それを確かめるためにも、まずは限界まで考えてみましょう^^」とかなんとか言って納めてしまいます。

    もちろん、時間的・人的・経済的な制約の中で考えられることには限界があります。現実の世界で起きている問題の複雑さをよく描写している、お気に入りのリストを紹介します。

    • 物理的な複雑性(dynamic complexity):問題の原因と結果が空間的、時間的に遠く離れている
    • 生成的な複雑性(generative complexity):問題がこれまでにない、予期できない形で展開し続ける
    • 社会的な複雑性(social complexity):かかわり合う人々が問題に対してそれぞれまったく異なる捉え方をする

    解決困難な問題がもつ三つの複雑性*ListFreak

     これはアダム・カヘン『手ごわい問題は、対話で解決する』からの引用です(1)。カヘンが事例として挙げていたのは、たとえば民族間の紛争などの大きな問題です。しかし小さな組織の中の小さな問題にも、これらの複雑さは存在します。とりわけ、問題がモノでなくヒトがらみのとき、複雑さが一気に増すように思います。

    論理的に考えることは、現実の問題に対処していくための必要条件であっても十分条件ではないとするならば、さらにどんな能力が必要なのか。それは、ロジカル・シンキングの力だけが突出した状態の人の失敗談から学ぶことができそうです。つまり、ロジカル・シンキングを学び、ロジカル・シンキング万能モードになって職場に戻った人がどんな失敗をしたか、その経験を集めて考えてみるということです。

    クラスの卒業生、卒業生の上司の声、そして何より自分の経験を振り返ってみると、こんなところでしょうか。

    • 考えが論理的かどうかを優先しすぎ、他者の気持ちへの配慮が足りなかった。
    • 論理的に解決するために、話を簡単にしすぎた。
    • 問題の解決を急ぎすぎた。その場で○×をつけるより、「時が解決してくれる」効果にゆだねるべき問題もあった。
    • 自分が問題を解決しすぎた。当事者の問題を勝手に解いて、これが最善の策だと押しつけてしまった。
    • 解決を重視しすぎた。解決に至るプロセスを共有しなかったため、合意や共感が得られなかった。
    • 論理的に考え尽くせない問題(曖昧な問題、大きな問題、感情の問題など)を避けてしまった。
    • 見出しに掲げたとおり、「論理という刀を振り回し、相手も自分も傷つける」か「論理という刀で切れない問題からは逃げてしまう」失敗が多かったと思います。

    一方、こういった失敗をうまく回避できる人もいます。一言で言えば……オトナな人、あるいは思慮深い人、と言ったらよいでしょうか。

    ●思慮深さの定義

    最近になって読み返した雑誌に、この問題意識に応える研究が紹介されていました。

    人の論理的な思考力は10歳代の前半でほぼ成熟する到達するようです。とはいえ、それは文字通りの意味での論理的思考力でしかありません。知識を蓄え、経験を積むにつれて発達する知能があると考える研究者もいます。彼らはそれを「ポストフォーマル思考」と呼び、次のように定義しているそうです:

    • 相対主義的思考 ― “唯一絶対”を追わない
    • 弁証法的思考 ― 相反矛盾を“止揚”する
    • 体系的思考 ― “関係・過程”に意義がある

    「成熟した思考力」3つの特徴*ListFreak

    とても短い定義ではありますが、先に挙げた「ロジカル・シンキングだけに頼った失敗」を救ってくれそうな能力ばかりです。

    この種の知能(発達性知能)の働きを紹介している”The Mature Mind”(成熟した精神。邦題は『いくつになっても脳は若返る』)によれば、これらの知能は加齢とともに衰えるのではなく、高まっていく性質があるとのこと(2)

    自分を振り返るというと、できていないところにばかり目が向きがちです。しかし「以前はできなかったのにできるようになってきたこと」に意識を向けてみると、上記の「思慮深さ」が備わってきたことが実感できるかもしれません。

    また、ベテランならではの付加価値をどこに求めていくべきかを考える、よい材料になりそうです。


    (1) アダム・カヘン 『手ごわい問題は、対話で解決する』(ヒューマンバリュー、2008年)

    (2) ジーン・コーエン 『いくつになっても脳は若返る』(ダイヤモンド社、2006年)

  • 115 学びは現場7割

    ●学びの70/20/10モデル

    学びに関しては、仕事や生活のすべてが学びの機会です。Center for Creative Leadershipという非営利のリーダーシップ教育機関は、〈学びの70/20/10モデル〉を提唱しています。

    • 学びの70%は、実生活や職場での体験、仕事、そして問題解決によってもたらされる。どのような学び(学習と成長)の計画においても、これがもっとも重要な側面である。
    • 学びの20%は、手本となる人々からフィードバックを受け、彼らを観察し、彼らとともに行動することによってもたらされる。
    • 学びの10%は、正式なトレーニングによってもたらされる。

    学びの70/20/10モデル*ListFreak

    何をもって学びとしたのか、それをどう測ったのか、もちろん調査者の定義があります。ここでは「学びは現場7割、お手本2割、トレーニング1割」というメッセージだけをいただいて、わたしの解釈を述べます。

    何をもって「学ぶ」というのか。よく「分かるとできるは違う」といいますよね。たとえば「結論から・全体から・単純に」という、思考の優れた心得があります。しかし言葉として分かっていても、その通りに考えようと思っていても、「その場」でできていなければ、この心得を学んだとはいえません。

     ということは、理解し実践しようと「意識」したことを「できる」かが、学びの基準になるはずです。日々の仕事のなかでこの心得を思い出せた割合が理想の50%、そのときに意識したとおりの言動ができた割合が20%とすれば、50% × 20% = 10%は学べたというイメージです。

    トレーニングは「分かる」ためのものです。それを「できる」まで積み重ねる現場での学びが7倍というのは、経験に照らせばむしろ控えめな数字にも感じられます。

    わたしは泳ぐのが好きで、「楽に・長く・速く」泳ぐという3か条を掲げて我流のカイゼンを楽しんでいます。ときどきは本や映像でフォームを研究します。「よし、分かった」と思い、プールで試してみると……ちっとも「できない」のです。自由形であれば、左手で水をかき、右手で水をかく、ただその繰り返しです。その改善がこれだけ難しいのなら、新しい考え方を身につけるときには97/2/1くらいのつもりで現場で試さなければと、よくプール帰りに考えてしまいます。

    ●身口意の一致

    「できる」を「行動」と「言葉」に分けると、学ぶとは「行動」と「言葉」を「意識」と合わせようとすること、といえます。行動と言葉と意識、この3か条は仏教の言葉で身口意(しんくい)の「三業(さんごう)」と呼ばれます。

    わたしの尊敬するある先輩講師は、講壇に立つこころがけを尋ねられて「言行一致」を挙げていました。学びの実践者としてふるまい、自分ができないことは教えない、という自戒の言葉だそうです。

    わたしもその真似をして、講師役を務めるときは〈身口意の一致〉を思い出すようにしています。とはいっても先輩ほど自分に厳しくあろうとすると、仕事ができなくなってしまいます。せめて「分かっていても、できない」ことを認めたうえで、壇上にいる間だけでも意識したことを行動と言葉で体現する努力をしたいと考えています。参加者にとっては学びの1割を得るトレーニングの時間が、講師にとっては学びの7割を得る「現場」なのですから。 

  • 114 「もっとも厳しい質問」に備えよ

     ●「もっとも厳しい質問」に備えよ

    想定してなかったような厳しい質問、あるいは想定はしていたけれど考えるのを無意識のうちに避けていたような質問をされて、絶句。そこから相手にペースを握られてしまい、交渉を思うように運べなかった。誰しも、そんな経験があると思います。

    ハーバード大学ビジネススクールで交渉学を教えるジェイムズ・セベニウス教授は『「もっとも厳しい質問」への準備はできているか?』という記事で、そのような質問をどう想定し、対応すべきかを論じています(1)。その流れを、見出しを翻訳しつつ紹介します:

    1. 「もっとも厳しい質問」を想定する
    2. 多様な回答を考え、最善のものを選ぶ
    3. どう答えるかを練習する
    4. 相手をよく観察し、回答を調整する
    5. 質問に答える以外の選択を考える

    興味を引かれたのは、1でした。どのような質問が「もっとも厳しい質問」たり得るのか。記事を要約してリスト化したものをお目にかけます。

    • 候補:「他の選択肢はありませんか?」(取引の例)
    • 約束:「間違いなく仕事に専念できますか?」(採用面接の例)
    • 底値:「最低、いくらまでなら譲歩できますか?」(取引の例)
    • 二択:「これが私の最終案です。是か非か、今ここで答えてもらえますか?」(取引の例)
    • 本音:「これを売ろうとする、あなたの本当の理由は何ですか?」(取引の例)
    • 経験:「あなたはこの仕事の経験が十分ではないのでは?」(採用面接の例)

    交渉の前に考えておくべき「厳しい質問」*ListFreak

    回答を考えるのに精神的なエネルギーが要りそうな項目が並んでいます。ここまでぶしつけな表現ではないにせよ、たしかに聞かれてもおかしくない項目のように思います。

    ●決断における「もっとも厳しい質問」とは

     「もっとも厳しい質問」に備えるというアプローチは、意志決定にも使えます。わたしのお気に入りの自問リストはこれです:

    • 完全に合理的な人は、どう決断するだろうか?
    • 80歳になった自分が過去を振り返ったとき、この決断をどう思うか?
    • あと3年で死ぬとしたら、どのような決断になるか?
    • (尊敬する人の名前)なら、どう決断するだろうか?
    • (尊敬を失いたくない人の名前)に自分の決断が間接的に伝えられたとき、この決断をどう見るだろうか?

    大きな決断をするための、5つの問い*ListFreak

    比べてみると、先に紹介したリストは質問の具体的な内容を列挙していますが、私の決断リストは「○○さんはどう思うか」といったかたちになっています。前者は「何についての」、後者は「誰からの」質問なのかに焦点が当たっていると言えるでしょう。

     これまでは「完全に合理的な人」や「80歳の自分」をイメージして「どう思うか」だけを考えていましたが、そういった人たちが決断を下そうとしている自分に「何を」問いかけるのかを考えてみることで、より厳しい自問の枠組みが作れそうです。


    (1) Sebenius, James K. “Are You Ready for the ‘Hardest Question’?” Negotiation 15, no. 11 (November 2012): 4–5. 

  • 113 十を聞いて一を知る

     ●一を聞いて十を知る……うち九は妄想かも

    問題解決の流れを学ぶセミナーで、他の人の問題をヒアリングするというワークをやります。まず、グループの中の1人が相談者となって自分の問題(組織内のコミュニケーションがよくないなど)を挙げます。次に、ヒアリングタイムという10〜15分間の枠を設け、他の人がその問題を具体的に理解するために相談者に質問をします。何をどう聞くかについては、あらかじめ練習しておきます。最後に、アドバイスタイムを5分間ほど設けています。ここでは質問した側が「聞きながら思ったこと」を相談者に自由にフィードバックします。

    先日も、それを実施する機会がありました。ヒアリングタイムは、やや沈滞ムードです。しかしアドバイスタイムに移ると、とたんに場が賑やかになりました。人が話を聞きながら思うことの多さに、あらためて驚かされます。そんな様子を観察していると、ヒアリングが沈滞していたのは学びたての質問法を駆使するのが難しいだけでなく、頭に浮かんできたことを口に出さないでおくのにエネルギーを使ってしまうからだと感じます。

    アドバイスタイムでフィードバックされる内容のトップは問題の解決策について、つまりこうすればいいじゃないかという話です。2番目は問題の原因について、つまりこれが悪いんじゃないかという話です。問題は、まず何が起きているかをよく理解して、原因を突き止めて、その原因を解消するための解決策を考えるのが王道で、一足飛びに原因や解決策を考えるのは妄想だという話は冒頭でします。するまでもなく、参加者の皆さんはご承知の話です。それでもやはり、話を聞くやいなや、すごい勢いで妄想がふくらんでしまうのです。一を聞いて十を知るといいますが、ふくらんだ九は、あらかた妄想なのかもしれません。

    ●十を聞いて一を知る

    こと問題解決に限っていえば、一の事象から十の原因(、さらには百の解決策)を思いつくよりも、十の事象を見聞きし、それらを生じせしめている一の原因をよく考えた方が、無駄がありません。それなのにわれわれは、二つ三つの出来事を聞いて、それらを説明できそうな原因やそれらを解決できそうな策を思いついた瞬間、そちらに注意を奪われてしまいます。

    実のところ、問題を理解するだけならばアドバイスタイムは必要ありません。問題の原因や解決策について相談者に予断を与えるという点でむしろデメリットです。しかし、この時間がないとヒアリングタイムにアドバイスが流れ込んできてしまうことを、経験から学びました。

    回によっては、後でアドバイスの時間があると知りながら、聞くだけの10分間が我慢できず、アドバイスを始めてしまう人が続出します。巧妙にも質問の体裁をとったアドバイス(こうすればいいってことじゃないですか?)をする人もいます。

    今回の参加者の皆さんはよくこらえ、ヒアリングに専念してくださいました。そのおかげで、原因追求につながる重要な事実が発掘できたグループもありました。

    あるグループの相談者が挙げたのは、職場で世代の異なる人同士のコミュニケーションがうまくいっていないという問題でした。この短い言葉だけで、頭の固い年長者と礼儀知らずの若者との断絶といった妄想がふくらんでしまいます。しかしこのグループでは、コミュニケーションの内容、関わっている人、うまくいかなくなった時期などについて、事実をしっかり聞き出しました。うまくいっていない事象だけでなく、どこまでならうまくいっているのかという点の確認にも目を向けました。

    その結果、仕事以外の場面でのコミュニケーションはうまくいっている(したがって仕事上の情報共有のやり方を整えれば問題は解決する見込みがある)ことや、よきまとめ役だった中堅社員Aさんの異動があったことなどが分かりました。そして、ヒアリングタイム(とアドバイスタイム)を終えて問題の原因を考えていったところで、このAさんの存在(というか不在)がクローズアップされてきました。Aさんは相談者の想像以上に肩書き以外の役割を担ってくれていた、つまり組織内のコミュニケーションを円滑にするという仕事をしていたことが浮き彫りになってきたのです。

    もちろん情報源である相談者にとってはすべて既知の情報です。しかし相談者は当事者であるがゆえに情報を整理しきれなかったり、問題意識が強いために事象の因果関係を客観視しづらいことがあります。このグループでは、仲間ががまんづよく十を聞き、その背後にある一を見つける手伝いをしてくれたおかげで、相談者は起きていることの因果関係が俯瞰できるようになり、問題解決の糸口も見えてきました。

  • 112 倫理の広さと深さ

    倫理的であるとは、どういうことか。リン・シャープ・ペインは、著書『バリューシフト―企業倫理の新時代』の中で、これをを分かりやすく定義しています。

    「倫理的である」かどうかは、大きく「何を」「どうする」ことなのかという枠組みでとらえられます。前者は倫理という言葉が指し示す内容であり、後者はそれらの内容についての具体的な行動です。倫理を広さ(何を考えるのか?)と深さ(どこまでやるのか?)でとらえると言ってもいいでしょう。

    まず「何を」について、著者は「正義/人間性」という切り口で整理しています。「正義」とは、誠実さ、正しさ、公平さなどに関わる価値観(バリュー)を、「人間性」とは、人間の成熟、他人への思いやり、社会の改善に関わる価値観を、それぞれ指します。これは、たとえば東洋では「礼/仁」、西洋では「誠実さの美徳/思いやりの美徳」といったように『多くの倫理思想の伝統に見られる二つの区別』だそうです。

    なるほど……。なんとなく定義に重複があるようにも感じられますが、「社会」目線の価値観が正義で、「(自分を含む)人間関係」目線の価値観が人間性だと理解すると、腑に落ちるように思いました。

    次に「どうする」について、著者は「基本/完全」という切り口を考案しています。前者は最低限の基準を満たすための行動で、後者はより積極的に、文字通り完全を求めての行動です。受動/能動、消極/積極という感じです。

    これら二つの切り口を組み合わせたのが、著者が作成した次のリストです。

    • 正義についての倫理的な行動(基本 ― 完全)
      • 間違ったことをしない ― 正しいことをする
      • 契約を全うする ― 約束を守る
      • 盗みをしない ― 公正でいる
      • 詐欺行為をしない ― 正直でいる
      • 法の文言にしたがう ― 法の精神にしたがう
    • 人間性についての倫理的な行動(基本 ― 完全)
      • 自己を維持する ― 自己を成長させる
      • 他人を傷つけない ― 積極的に他人を助ける
      • 人間の権利を尊重する ― 人間の尊厳を奨励する
      • 社会にとって有害なことをしない ― 社会の改善に貢献する
      • 思いやりを持つ ― 勇気を持つ

    倫理的な行動のリスト*ListFreak

    基本と完全の対比が効いていますね。個人的に感ずるところのあった項目(太字にしました)をピックアップします。

    • 「契約を全うする」だけでなく「約束を守る」。奇しくも、やや迷いつつ引き受けてしまい、その後膨らんでしまった仕事があり、どこまでコミットすべきか考えていました。この項目を見て、「約束」から始まった仕事だったのに、何とか「契約」を全うすればいいや的なモードに傾いていた(いる)なあと、気づくところがありました。もう一度、守るべき「約束」から考えて、やるべきことを見直そうと思います。
    • 「思いやりを持つ」だけでなく「勇気を持つ」。これが同じ項目に並んでいるところに、いろいろな意味でハッとさせられました。「思いやりを持つ」が「基本」にすぎないという著者の厳しさにも驚きましたし、思いやりを突き詰めていくと勇気に突き抜けるというのも、このリストの中で対比させられると、納得できる洞察です。
  • 111 謙虚さ・大局観・気づきで未来に立ち向かう

    『リスク、不確実性、そして想定外』という本を読みました。この分野で有名な本には『ブラック・スワン―不確実性とリスクの本質』『リスク―神々への反逆』(いずれも上下巻)など大著が多いのですが、この本は総説的な位置づけの新書で、楽に読み通せます。

    ひとりカンパニーで10年間やってきて、独りで仕事をしていくうえで重要なのは「不安のマネジメント」だと考えているわたしにとって、「リスク」は公私ともにひきつけられる話題です。ただし、ひきつけられると言っても、四六時中リスクのことばかり考えていたいというわけではありません。著者の植村 修一はリスク管理にインセンティブが働かない理由を三つ挙げていました:

    • 人間としての自然な欲求 ― リスクを考えると不安になる、リスクを考えるよりもっと前向きなことを考えたい
    • リスクの非対称性 ― リスクが顕在化しなかった場合、リスク管理がなされたことやリスクの存在そのものが忘れられやすい。結果としてリスク管理の評価が低くなる
    • リスク管理は後ろ向きという誤解 ― リスク管理とはリスクを取らないことなので、リターンも得られない(実際には期待するリターンに相応するリスクを認識し、対処するのがリスク管理)

    リスク管理に人気がない理由*ListFreak

    必要だけれど敬遠されがち、あるいは軽んじられがちなリスク管理のインセンティブをどう高めるか。著者は「大事なものを守る」という発想に立とうと提案しています。

    なるほど。「不安をマネジメントするため」よりも「大事なものを守るため」と考えたほうが、ダイレクトだし前向きに考えられるかもしれません。

    この「大事なものを守る」という言葉は、終章のタイトルにも採用されています。本のまとめにあたるこの章では、リスク・不確実性・「想定外」など『将来、すなわちまだ確定していないことに関するもの』への対処について、次のようにまとめられています。

    • 将来について謙虚になる ― 想定を置かないと先に進めないときでも、「起こりにくい・考えにくい」イコール「起こらない・考える必要がない」ではないことに注意する。
    • 「気づき」を大切にする ― すべてをあらかじめ想定できない以上、「あれっ」「おやっ」といち早く思う感覚を大事にし、それを生かす
    • 木を見ず森を見る ― 大局観や広い視野を持って客観的に考えると、リスクが見えることもある

    不確定な将来に対処する3つの心得*ListFreak

    著者は長く日本銀行に勤務した後、現在は経済産業研究所で研究員を務めています。そういった(おそらくリスク管理の理論面に長けた)方をもってしても、「気づき」のような要素を3つの心得の1つに入れざるを得ないところに、リスク管理の難しさ、あるいは人間の直感の優秀さを見て取ることができます。

    この「不確定な将来に対処する3つの心得」が気に入ったのは、わたしの好きな知情意の枠組みで理解できるからにほかなりません。すなわち、

    • 【意】将来について謙虚であろうという意志をもち、
    • 【知】大局観や広い視野を持って客観的に考え、さらに
    • 【情】現場での「気づき」、つまり情動に耳を傾ける

    と解釈すれば、枠組みの確かさが分かります。

  • 110 ポアソンの習慣

    ● ポアソンの習慣

    19世紀の初頭に活躍し、現在も多くの現象や公式にその名前が冠せられている科学者、シメオン・ドニ・ポアソン(Wikipedia)。彼の驚異的な活躍の秘訣は『一冊のノートと、ささやかな習慣』だった。そう語る、面白い文章に出合いました。

     ポアソンは興味深いと思う問題に出くわすたびに、その楽しみにふけりたくなる衝動に抵抗した。そして代わりにノートを取り出し、その問題を書き留めると、中断が入る前に夢中だった問題にさっさと注意を戻した。手元の問題が片付くと、そのたびにノートに走り書きされた問題のリストを眺めまわし、最も興味深いと思ったものを次の課題として選び出す。

     ポアソンのささやかな秘訣とは、生涯にわたって注意深く優先順位をつけることだったのだ。

    アルバート=ラズロ・バラバシ『バースト! 人間行動を支配するパターン』(NHK出版、2012年)

    実は、数年前からこの話を探していました。というのはこれに酷似した話をネットのどこかで読んだからです。その主人公は熟練のプログラマーでしたが、もしかしたらポアソンのこのエピソードの翻案だったのかもしれません。最近のライフハックのテクニックと比べると素朴な方法ですが、注意のマネジメント手法としてみれば、根源的には同じことをやっています。ポアソン分布・ポアソン方程式・ポアソンの法則など多くの業績を挙げたポアソンに敬意を表して、以下このやり方を「ポアソンの習慣」と呼ぶことにします。

    ●「ポアソンの習慣力」をマスターする

    注意がそれるたびに、元の道に戻す。この、言うなれば「ポアソンの習慣力」のトレーニングを意識の微細なレベルで行うのが、いわゆる「気づきの瞑想」です。ラリー・ローゼンバーグは、その本質を次のような簡潔なコツにまとめてくれています。

    1. できれば、一度にひとつのことしかしないこと。
    2. 自分がしていることに充分な注意を払うこと
    3. していることから心がふらふら離れていったら、心を連れ戻すこと
    4. 第三ステップを何万回、何億回と繰り返すこと
    5. 気が散ってしまうプロセスを調べること

    気づきの修行のコツ*ListFreak

    今・ここに注意を向け続けるべき理由やその手法については、当コラムでも『「今・ここ」にいられない症候群』などで触れていますので、もしご興味があればお目通しください。

    ● ジャネットの支援

    ポアソンのエピソードを教えてくれた『バースト!』は構成の複雑さ、内容の広範さ、探究的思索の深さ、どの観点からみても労作です。同書によれば、著者のバラバシは「ノートルダム大学コンピューターサイエンス&エンジニアリング特認教授、ノースイースタン大学物理学・生物学・およびコンピューター&情報科学特別教授、同校で複雑ネットワーク研究センター長を務め、またハーヴァード大学医学部講師も務めている」という、見るからに忙しそうな肩書きです。これだけの仕事をこなしながら一般向けの本が書けるということは、バラバシもきっと「ポアソンの習慣」を身につけていることでしょう。

    その彼をもってしても、この本をまとめ上げるために4年間かかったそうです。その苦労ぶりが忍ばれる、謝辞の最後の段落をお読みください。

     この本に取り組んでいた四年の間には、さまざまなことが起こった。私はふたりのすばらしい子供を授かり、四回も転居し、仕事を変え、そしてようやくプロジェクトの最終段階に来たところで、自転車の事故で手首を骨折した。そのたびに、もう断念して生活に集中しようと言い訳したくなったものである。それでもなんとか書き続けられたのは、パートナーであり妻である、ジャネットの理解があったおかげだ。(略)

    大きなイベントが起きて、執筆をあきらめたくなる。著者はそのたびに、ジャネットの助けを借りて注意を執筆へと向け直すことができました。本の謝辞にはこういうくだりがよく登場しますよね。対象は家族であったり編集者であったりさまざまですが。このような、長期間にわたる注意のマネジメントを助けてくれる人(あるいは仕組み)を、「ポアソンの習慣」にならって「ジャネットの支援」と名づけてみます。

    大きな成果は、「ポアソンの習慣」と「ジャネットの支援」、つまり短期と長期の注意のマネジメントの両方が整ったときに生み出される。著者の体験はそれを教えてくれているように感じました。